伝記
アル=カーミルは1180年(1177年ごろともいわれる)に生まれた。アイユーブ朝の第4代スルタンであるアル=アーディルの子で、おそらく長子で、初代スルタンのサラディンの甥にあたる。本名はナースィルッディーン・ムハンマドで、アル=カーミルはスルタンに即位するにあたって与えられた尊称であり、アラビア語で「完全なるもの」を意味する。父が1196年にダマスカスのスルタンとなると、領地としてディヤルバクルとジャズィーラを任された。その後、父がエジプトを手に入れると、副王に任じられた。
第5回十字軍がエジプトに上陸してダミエッタを包囲した。カーミルは救援に向かい、十字軍が町を完全に囲むのを防いで損害を与えたが、十字軍の船がナイル川の鎖の塔を奪うと、父は1218年に知らせを聞いて亡くなったとされる。父は死の前に、エジプトからの撤退と引き換えにエルサレムを譲るよう子らに勧めていたという。即位したカーミルの守りに徹する戦い方は軍の不満を招き、ナーブルスの領主が弟を擁立しようとする陰謀を起こした。カーミルは夜のうちに陣を離れ、軍は散り散りになったが、救援に来た弟のムアッザムの助けで陰謀者たちを抑えた。カーミルは2度にわたって、十字軍の撤退と引き換えにエルサレムを返すと申し出た。エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌや諸侯は好意的だったが、教皇使節ペラギウスが拒み、十字軍はダミエッタを奪った。1220年の夏、カーミルが整えた艦隊は、キプロス沖で西方の船団を打ち破った。ダミエッタ占領中には、聖フランチェスコが改宗を勧めに訪れ、カーミルは丁重に迎えたが、部下を恐れて洗礼は断ったと伝えられる。やがてペラギウスはカイロへ進軍したが、ナイル川の増水でぬかるみに足を取られた十字軍は降伏し、ダミエッタの返還と引き換えに解放された。
しかし、十字軍に当たってきたカーミルと弟ムアッザム、ジャズィーラなどを治める弟アル=アシュラフの協調は、1223年の終わりに崩れた。フリードリヒ2世は1225年にジャン・ド・ブリエンヌの娘と結婚してエルサレム王位を得ていた。1226年、領地をホラズム人に脅かされたアシュラフがダマスカスのムアッザムのもとへ助けを求めに来ると、ムアッザムは彼を手厚く留め置き、カーミルに対抗する同盟を迫った。解放されたアシュラフはすぐ約束を破ってカーミルの側についた。ムアッザムがホラズム人と結ぶと、カーミルとアシュラフは、エルサレムを与える約束で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に同盟と援軍を求める使節を送った。兄弟の戦いが始まろうとしたとき、ムアッザムが亡くなった。2人は書簡で、アラビア語を使って自然科学の議論など知識人としての交流を続け、互いに戦いを望まないことを知った。
1228年、フリードリヒ2世は第6回十字軍を率いて侵攻を始めた。しかしカーミルはこれを迎え撃つ余裕がなく、皇帝も教皇や教皇派諸侯との争いに集中したかった。カーミルは10年間の休戦と、十字軍側へのエルサレムの返還に同意し、全軍を内紛の収拾に向けた。内紛はおさまったが、エルサレムを手放したことで多くのイスラム教徒の不満を招き、バグダードのモスクではカーミルを糾弾する集会が開かれたという。1237年にはシリアのスルタンの地位も得た。エルサレムに和平が訪れてから9年後の1238年3月6日、カーミルは亡くなった。交流は死ぬまで続いたという。それから12年後に皇帝も亡くなり、19世紀の調査で棺の中の皇帝がイスラム風の衣装をまとい、袖にはカーミルに向けた言葉と思われるアラビア語の刺繍があったことが記録されている。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス1世 (トレビゾンド皇帝) (1238年没)
- ヘンリク1世 (1238年没)
- ユーリー2世 (1238年没)
- ジョーン・オブ・イングランド (1210-1238) (1238年没)
- ギヨーム・ド・ロリス (1238年)
同じ地域に関係する人物
- アル=アーディル (1218年没)
- Rida al-Rikabi (1942年没)
- Odo de St Amand (1179年没)
- イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー (1201年没)
- アブドゥルマリク (705年没)