伝記
バガト・シンは、1907年9月27日、当時イギリス領インドだった現在のパキスタン、パンジャーブ州のバンガ村に生まれたインドの革命家である。7人の子の2番目で、父キシャン・シン・サンドゥと叔父アジット・シンは、運河植民地化法案への反対運動や1914年から15年の反英闘争に加わった進歩的な活動家だった。村の学校に数年通ったのち、ラホールのダヤーナンダ・アングロ・ヴェーディック・スクールに入学し、1923年にはナショナル・カレッジに進んだ。これは、ガンディーの非協力運動に呼応してラージパト・ラーイが設立した学校だった。両親は結婚させようとしたが、1925年に結婚を強制されないという約束でラホールに戻り、その後は生涯未婚を貫いた。
早くから革命的、社会主義的な文学に関心を示し、カウンポール滞在中は偽名で民族主義の新聞に携わった。1924年には急進派のヒンドゥスターン共和国協会に参加している。ラホールに戻ると労働者農民党に接触し、ペンネームで機関誌に執筆し、1926年3月には青年インド協会を自ら設立して、イギリスを非難する廉価なパンフレットを発行した。1927年5月には、前年にラホールで起きた爆破事件への関与を疑われて警察に逮捕されたが、5週間後に保証金で釈放された。釈放後しばらくして、信仰していたシク教を放棄し、長髪とひげを切り落とした。
1928年10月、インド人委員を含まないサイモン委員会に反対するデモがラホールで行われ、先頭に立ったラーラー・ラージパト・ラーイは、警視スコットの命令した警棒の殴打と本人の暴行で負傷し、半月後の11月17日に心臓発作で死去した。シンは後にヒンドゥスターン社会主義共和国協会となる革命家グループの有力メンバーで、同志とともに報復を決意した。1928年12月17日、スコットと誤認して警視補ジョン・ソーンダーズを射殺し、追いかけてきた巡査長チャンナン・シンも同志が射殺した。当時の世論は後の好意的な見方とは異なり、ガンディーもこの事件を時代錯誤な行動として非難した。逃亡の際には、髪を切り洋装に身を包んで、同志の妻ドゥルガワティ・デーヴィーと若い夫婦を装い、列車でラホールを脱出した。
1929年4月8日、デリーの中央立法議会の傍聴席から、威力を弱めた2つの爆弾を投げ込んだ。殺傷が目的ではなく、事件を起こして逮捕されることで目的を宣伝する舞台を作るのが狙いだった。逃げられた可能性があったにもかかわらず、現場に留まり「革命万歳」と叫んでビラをまいて逮捕された。6月12日に爆発の罪で無期懲役となったが、逮捕によりソーンダーズ事件への関与が明るみに出た。裁判を待つ間は、インド人囚人の刑務所環境の改善を求めて長期のハンガー・ストライキを行い、世間の共感を得た。インド総督アーウィンは異例の特別法廷を設け、上訴は枢密院にしかできなくなった。結局、ソーンダーズとチャンナン・シン殺害の罪で有罪となり、1931年3月23日、23歳で絞首刑に処された。無神論者で社会主義者だったシンは、共産主義者から右派のヒンドゥー・ナショナリストまで幅広く崇拝された。大衆の芸術や文学の中でも讃えられ、「偉大なる殉教者」と呼ばれて、死後もインド国内で英雄視され続けている。
同じ年に亡くなった人物
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- ヴィルヘルム・フォン・グレーデン (1931年没)
- ウィルソン・ベントレー (1931年没)
- フェデリコ・チノコ・グラナドス (1931年没)
- カリン・ゲーリング (1931年没)
同じ地域に関係する人物
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- ムハンマド・ラッバーニー (2001年没)
- ヤヒヤー・ハーン (1980年没)
- ヌールル・アミーン (1974年没)
- シハーブッディーン・ムハンマド (1206年没)