伝記
後鳥羽天皇は、文武両道で知られた日本の第八十二代天皇で、諱を尊成という。一一八〇年に高倉天皇の第四皇子として生まれた。母は坊門信隆の娘の殖子(七条院)で、後白河天皇の孫にあたり、先の安徳天皇の異母弟である。一一八三年、木曽義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へ逃れた。後白河法皇は新しい天皇を立てることにし、候補のうち四歳の尊成親王を選んで、八月二十日に即位させた。三種の神器がないままの即位だった。即位式も一一八四年に、やはり神器なしで行われた。
平家が滅びた壇ノ浦の戦いで、宝剣は海中に沈んだまま見つからず、一一八七年に捜索は事実上終わった。のち平家都落ちの直前に伊勢神宮から献上されていた剣を代わりに用い、一二一〇年に正式な宝剣とみなした。それでも一二一二年には、藤原秀能を西国に送って宝剣を探させている。神器が揃わなかったことを後鳥羽が負い目とし、強い王権を示す必要を感じたことが、のちの承久の乱の遠因になったとする見方もある。
一一九二年に後白河法皇が亡くなるまでは院政が続き、その後は関白の九条兼実が朝廷を導いた。一一九六年の政変で兼実は退けられ、一一九八年に天皇は土御門天皇に譲位した。以後、土御門、順徳、仲恭の三代にわたる二十三年間、上皇として院政を行った。一二〇一年に京で挙兵した城長茂が幕府追討の宣旨を求めても退け、かえって長茂を討つ宣旨を出した。一二〇二年に兼実が出家し、土御門通親が急死すると、名実ともに治天の君となった。一二〇三年には、鎌倉幕府から将軍源頼家の弟千幡を後継に要請されて、自ら「実朝」の名を定めた。一二〇五年に牧氏事件で寵愛した平賀朝雅が討たれると、北面の武士に加えて西面の武士を置き、独自の武力を整えようとしたとされる。一二〇七年には、熊野詣の留守に女房たちが法然の門下の念仏の集まりに加わって出家した事件に怒り、専修念仏を停止して法然や親鸞らを配流した。牧氏事件ののちは将軍実朝を取りこみ、幕府内部への影響力を広げようとしたとされる。ところが一二一九年に実朝が甥の公暁に暗殺されると、幕府は皇子を将軍に迎えたいと求めたが、上皇は応じず、亀菊の所領の地頭の廃止を要求した。幕府がこれを拒んで交渉は不調に終わり、幕府は九条道家の子の三寅(のちの藤原頼経)を将軍に迎えた。
一二二一年五月十五日、後鳥羽上皇は執権の北条義時を討てとの宣旨と院宣を出し、承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗した。七月、義時の子泰時が大軍を率いて上京し、上皇は隠岐島に流された。順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は自ら望んで土佐へ移り、皇子の雅成親王は但馬、頼仁親王は備前へ流された。四歳の仲恭天皇は廃され、後鳥羽の同母兄行助入道親王の子の茂仁王が皇位につき、後堀河天皇となった。
流される直前に出家して法皇となった後鳥羽院は、そのまま島で暮らした。一二三五年の春ごろ、摂政の九条道家が後鳥羽院と順徳院の帰京を提案したが、泰時は受け入れなかった。院は一二三九年二月二十二日に配所で亡くなった。六十歳だった。五月に顕徳院と諡号が贈られたが、泰時が没した一二四二年に、あらためて後鳥羽院の追号が贈られることになった。院は中世屈指の歌人で、新古今和歌集の編纂でも知られ、その歌は後の世にまで大きな影響を与えた。
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