HISTORICAL PERSON · 紀元前93年没

東方朔

前漢武帝時代の政治家・文人。自ら推薦状を送り側近に取り立てられ、滑稽な言動と博識で知られ、後世には仙人として神格化された伝説が多く残る。

生涯
紀元前93年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(山東省 / 恵民県)
出典
世界地図
中華人民共和国(山東省)

伝記

東方朔は、前漢の武帝の時代の政治家である。字は曼倩。平原郡厭次県、現在の山東省の人で、生没年は紀元前154年から前93年とも、紀元前160年ごろから前93年ごろともいわれる。もとの姓は張で、のちに珍しい複姓の東方に改めたとされる。若くして父母を失い、兄夫婦に育てられたと自ら述べている。

武帝が即位後、有能な人材の推挙を求めた紀元前138年、数千人が自分の才を売り込むなかで、朔は自らを推薦する上書を奉った。十二歳で文字を学び、十五歳で剣術、十六歳で『詩経』『書経』を学び、十九歳では孫子・呉子の兵法や陣営の道具、鼓や鉦の規則を学んだ。合わせて四十四万字を暗誦できると述べ、「今年二十二歳になり、勇猛果敢で、恐れを知らず、知略に富んでいるので、大臣に向いていると思う」と記した。あまりにも自惚れた言葉だが、武帝は並の人物ではないと考え、待機を命じたという。『史記』には、長安に初めて入ったとき、三千枚の竹簡に書いた上書を提出し、武帝が二か月かけて読み終えて郎官に任じたとも伝わる。

天子に会える機会を待ちかねた朔は、馬屋で働く侏儒たちを脅した。皇帝が自分たちを殺そうとしていると告げ、通りかかったら頭を下げて命乞いをせよと教えたのである。侏儒たちが泣いて叩頭すると、武帝は朔を呼び出して問いただした。朔は、侏儒は身の丈三尺ほどなのに俸給は穀物一袋と銭二百四十、自分は九尺ほどなのに同じ額で、侏儒は食べすぎで死にそうだが自分は飢え死にしそうだと訴えた。武帝は大笑いし、金馬門で待機するよう命じた。こうして朔は少しずつ信任を得ていった。

暑い夏の日、武帝が侍従たちに肉を賜ったとき、配る役人の動きが遅いので、朔は剣で肉を切って懐に入れ、持ち帰った。翌日、朝廷で作法を破ったことを武帝に詫びた。食事に招かれて残り肉を懐に入れ、服を汚すのが常で、下賜された銭や帛を使い果たし、長安の若い美女を次々と娶っては一年で捨てた。これは采陰補陽という修身法だったが、事情を知らない同僚には狂人扱いされた。それに対し朔は、自分のような者は朝廷で気楽に過ごして世を避ける者だと答え、みずからを「朝隠」と称した。武帝は、「朔に仕事をさせれば、彼ほどの仕事ぶりを示す者はいない」と評価していた。また博士たちが、朔は博識なのに官は侍郎、位は執戟にすぎないと非難したときには、災害がなければ聖人も才を施すところがなく、上下が和していれば賢者も功を立てるところがないという古い諺を引き、戦国時代と漢代は違うと述べ、学を修めるのは出世のためではないと語った。朔は息子を郎官にしてもらい、その息子は侍謁者として使いに出るようになった。老いて死期が近づくと、武帝に讒言を退けるよう諫め、まもなく病死した。司馬遷は「鳥がまさに死なんとするときは、その鳴き声は哀しい」と述べて朔をたたえた。

後世には博学ぶりが誇張され、仙人のように描かれた。『漢武故事』や『博物志』には、西王母が植えた三千年に一度しか実らない桃を三度盗んだという荒唐無稽な逸話まで作られ、「三千甲子東方朔」とも称される。唐の詩人李白は、「世人は東方朔を識らず、大隠は金門の謫仙」と詠んだ。滑稽な振る舞いで知られ、中国では相声などの話芸の神様として敬われる。著書に『答客難』『神異経』がある。日本の能にも仙人として登場し、島根県や山口県には、長寿を自慢する伝説が残る。

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