伝記
ジャック・ド・ヴィトリは、フランス中部(おそらくランス)で生まれた聖職者である。生年は遅くとも1170年とされ、1160年から1170年ごろともいわれる。パリ大学で学び、1210年にリエージュ司教区のオワニーにあるサン・ニコラ修道院で、律修参事会員となった。この地位は1216年に司教に叙階されるまで続いた。1211年から1213年にかけては、パリの助祭長ギヨームとともにフランスとドイツをめぐってアルビジョワ十字軍を説き、多くの十字軍士を募った。1214年にはアッコ司教に選ばれた。
司教の叙階を受けてアッコの司教座に着任したのは1216年である。その後は第5回十字軍に深く関わり、1218年から1220年までのダミエッタ包囲戦にも加わった。1219年には、イスラムの興りから自分の時代の十字軍までの聖地の歴史を記す『エルサレム史』を書き始めたが、完成したのは2部だけだった。この書は十字軍の歴史を知る重要な史料となっている。1225年にヨーロッパへ戻った。
ジャックはこのほか数百の説教を残し、教皇ホノリウス3世に宛てた書簡も書いた。パリ大学の学生たちの不道徳な暮らしや、リエージュのベギン会の女性たちの聖なる暮らしについても書いている。なかでも『マリー・ドワニー伝』のマリーは、その助言が彼を律修参事会員の道に進ませた人物である。ジャックはベギン会が教会に認められていない運動でありながら、当時の司祭に並ぶほどの力をもつことに魅せられ、ホノリウス3世にその共同体を公認するよう訴えた。
1229年4月16日から7月29日の間に、教皇グレゴリウス9世はジャックを枢機卿に引き上げ、フラスカーティの司教座に移した。1232年に皇帝フリードリヒ2世のもとへ短期間使節として赴いた以外は、晩年を教皇庁での仕事に費やした。1229年7月から1239年6月まで、教皇の勅書に署名している。1238年か1239年にエルサレム総大主教ゲロルドが亡くなると、エルサレムの教会参事会員たちは、ジャックを新しい総大主教として東方へ送り返してほしいと教皇に頼んだ。しかし1240年5月14日付の教皇の返答によれば、ジャックはすでに亡くなっており、教皇は代わりにロベール・ド・ナントを任じた。ジャックは1240年5月1日にローマで、枢機卿団の首席として亡くなった。遺骸はオワニーに移され、1241年に葬られた。
2015年には、ベルギーの複数の大学や研究機関が参加した調査が、オワニーの教会にあるジャックの聖遺物箱を調べた。人類学・同位体・遺伝子の分析で、遺骸は本人のものである可能性が高いと示された。頭蓋骨の分析とDNAから、生前の顔の復元図も作られた。遺骸は2019年にオワニーに改めて埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- 大ルウェリン (1240年)
- Hartmann, Count of Wurttemberg (1240年)
- イザベル・マーシャル (1240年)
- チョルマグン (1240年(推定))
- Methodius II of Constantinople (1240年)
同じ地域に関係する人物
- ニコラウス1世 (ローマ教皇) (867年没)
- マリオ・マットーリ (1980年没)
- アルベルト・モラヴィア (1990年没)
- ピエーロ・ディンゼオ (2014年没)
- アントニオ・デル・ポッライオーロ (1498年没)