HISTORICAL PERSON · 1241年没

グレゴリウス9世 (ローマ教皇)

中世のローマ教皇で、皇帝フリードリヒ2世と対立して二度破門した。法学者として有能で、異端審問の制度を整え、1234年に教令集を公布した。フランチェスコやドミニコなど多くの聖人も列聖した。

生涯
1241年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(アナーニ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

グレゴリウス9世は、中世のローマ教皇で、1227年から1241年まで在位した。イタリア中部のアナーニの出身で、本名をウゴリーノ・ディ・コンティという。生年は1143年ごろ、1145年、あるいは1170年前後ともいわれ、没時には九十歳を超えていたとも伝えられる。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との確執で知られる一方、法学者としても有能で、各司教が自らの裁量で行っていた異端審問の制度を整えたことでも知られる。

叔父(従兄ともいわれる)の教皇インノケンティウス3世の下で若くから教皇庁の実務を重ね、パリとボローニャの大学で学んだ。1198年12月に助祭枢機卿に叙され、1206年にはオスティアとヴェッレトリの司教枢機卿へ昇り、法学と外交の専門家として知られた。1220年には、聖フランチェスコの特別な願いを受けて、ホノリウス3世からフランチェスコ会の保護枢機卿に任じられている。1227年に教皇の座に着くと、グレゴリウス9世を名乗った。ホノリウス3世に仕えていたころから、全ヨーロッパの君主としての立場を主張するホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世との争いに、否応なく巻き込まれていた。

治世は、十字軍を約束しながら実行しない皇帝に破門の猶予を与えることから始まった。猶予が過ぎて破門が実行され、皇帝は廃位の危険に直面した。皇帝はシチリア王国の教会への支配を強め、教皇への従順の誓いを破る構えも見せたため、溝は深まった。皇帝は聖地へ赴いて誓いを果たそうとしたが、留守中に教皇がシチリアへ勢力を広げようとしたため、すぐに戻って1228年に教皇領へ侵攻した。この攻撃は失敗し、教皇への服従を誓わされている。1230年8月に和平が結ばれたが、和解に反発したローマ市民が1232年6月に暴動を起こし、教皇はアナーニへ逃れた。1234年には、ローマ王ハインリヒ(7世)が父への不満を抱くと、教皇はロンバルディア同盟と組むよう煽ったとされるが、反乱は間もなく鎮圧された。1239年にフリードリヒ2世がロンバルディア同盟を破り、勢力が教皇領を包囲する形になると、教皇は皇帝を再び破門し、戦争となった。

教皇はローマに高位聖職者を集めて皇帝の廃位を宣言しようとしたが、皇帝は会議に向かう船団を捕らえ、あるいは沈めて阻もうとした。会議の開かれる前の1241年8月22日に、教皇自身が世を去った。後を継いだケレスティヌス4世は10月25日に選ばれながら11月10日に急死し、決着は次のインノケンティウス4世に持ち越された。

有能な法学者でもあり、1234年に公布された「新版教令集成」は、1473年にマインツで印刷され、広く読まれた。中世以来の教皇の勅令をまとめる作業は12世紀に始まり、1140年にグラティアヌスの手で一つの区切りを迎えていたが、教皇はこれに新たな教令と補遺を加えて決定版とし、教皇の法的な地位を裏づけるものとした。また、ハンガリーのエルジェーベト、ドミニコ、パドヴァのアントニオ、アッシジのフランチェスコらを列聖し、1230年にはドイツ騎士団に勅書を授けて異教徒への武力行使を認めた。ほかに、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の改築を行い、ハンガリー王アンドラーシュ2世を破門している。1233年には教皇直属の異端審問を整え、ドミニコ会士やフランチェスコ会士を審問官に任じて、各地の司教による審問の不統一を正そうとしたとされる。

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