HISTORICAL PERSON · 1242年没

順徳天皇

第84代天皇で、後鳥羽天皇の第三皇子。有職故実書『禁秘抄』と歌論書『八雲御抄』を著し、藤原定家に和歌を学んだ。父上皇とともに承久の乱を起こして敗れ、佐渡に配流され在島21年で崩御した。

生涯
1242年没
死亡地
日本(新潟県 / 佐渡国)
出生地
—
出典
世界地図
日本(新潟県)

伝記

順徳天皇は、日本の第84代天皇である。諱は守成といい、1197年10月22日(建久8年9月10日)に、後鳥羽天皇の第三皇子として生まれた。母は、藤原範季の娘で後鳥羽天皇の寵妃だった重子(修明門院)である。1199年(正治元年)1月に親王宣下を受け、翌1200年4月には、兄の土御門天皇の皇太弟となった。後鳥羽上皇はこの皇子を自らの後継者として強めようと、摂政九条良経が土御門天皇に入内させようとした娘の立子を、東宮の妃にするよう命じた。また、後白河法皇の皇女で歌人として名高い式子内親王を東宮の准母にしようとしたが、内親王が急死して失敗に終わり、代わりに、上皇自身の准母だった殷富門院を准母とした。1208年(承元2年)8月には、莫大な八条院領の相続人であった異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、1211年11月に内親王が亡くなると、八条院領を相続した。

1210年(承元4年)11月、後鳥羽上皇の強い意向で、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位した。譲位した土御門上皇に権力はなく、政治は後鳥羽上皇の院政が続いた。『増鏡』は、この御世には際立った出来事が多く、各地への行幸も頻繁で、好ましい様子だと評している。世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、鎌倉幕府に対して皇権を示す意味があり、おそらく父上皇の意図によるところが大きいと考えられている。直接政務にあずからない天皇は、王朝時代の有職故実の研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって『禁秘抄』を著した。これは天皇自身にかかわる作法を記した希少な書物として、後世まで珍重された。父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌の才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親しかった。

1221年(承久3年)4月、父上皇の討幕計画に加わり、それに備えるため、子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇になった。父以上に鎌倉幕府を倒すことに積極的で、5月に承久の乱を起こしたが、討幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ流された。穏やかな兄の土御門天皇とは対照的に、激しい気性の持ち主だといわれ、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたという。角田文衞は、反幕府の意識が強かった一因を、平家の生き残りである祖母平教子のもとで育ち、周囲に平家の関係者が多かったことにあるのではないかと見ている。

佐渡では、1232年(貞永元年)に『順徳院御百首』を詠んだ。歌論書の『八雲御抄』は、当時の歌論を集大成したものである。藤原定家は幕府への配慮から、『新勅撰和歌集』に上皇の歌を採らなかったが、『小倉百人一首』には1首を選んだ。家集は『順徳院御集』で、『続後撰集』以下の勅撰集に159首が入る。

在島21年ののち、1242年(仁治3年)9月12日に佐渡で崩御した。同年初めの四条天皇の崩御ののち、幕府が自分の皇子の忠成王を退け、土御門上皇の皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたため、上皇が帰京と子孫への皇位継承を幕府に強く拒まれたと知り、絶食による事実上の自殺を図った可能性も指摘されている。遺体は翌日に佐渡で火葬され、遺骨は1243年(寛元元年)4月に都へ持ち帰られて、翌月に後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。配流後は佐渡院と称されたが、1249年(建長元年)7月20日に順徳院と諡された。

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