HISTORICAL PERSON · 1242年没

北条泰時

義時の長男で鎌倉幕府第3代執権、得宗家3代当主。承久の乱では39歳で幕府軍の総大将として上洛して後鳥羽上皇方を破り、六波羅探題北方となった。御成敗式目を制定し、在職18年と執権を最も長く務めた。

生涯
1242年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

北条泰時は、鎌倉時代前期の武将で、鎌倉幕府の第3代執権である。1183年(寿永2年)、第2代執権北条義時の長男として生まれ、幼名は金剛といった。母の出自は不明で、側室であったとみられる。10歳のころ、御家人の多賀重行が泰時とすれ違った際に下馬の礼をとらなかったとして、源頼朝に咎められた。重行は泰時に尋ねるよう言い、泰時は重行に非礼はなかったと答えたが、頼朝は泰時が庇っていると判断し、重行の所領を没収して泰時には褒美に剣を与えた。この逸話は、泰時の人柄と、頼朝の寵愛を表すと評される。1194年(建久5年)に13歳で元服し、頼朝を烏帽子親として「頼」の字を受け、頼時と名のった。のちに泰時と改めた。1202年に三浦義村の娘を正室に迎え、翌年には嫡男の時氏が生まれたが、のちに離別して安保実員の娘を継室とした。

1203年の比企能員の変では討伐軍に加わった。1213年の和田合戦では父とともに和田義盛を滅ぼし、陸奥の地頭職を与えられた。1218年に侍所の別当、翌1219年には従五位上・駿河守となった。1221年(承久3年)の承久の乱では、39歳で幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の軍を破って京に入った。戦後は新設の六波羅探題北方に就き、南方には叔父の北条時房が就いた。泰時は京にとどまって朝廷を監視し、乱後の処理や西国の御家人の統括にあたった。

1224年(貞応3年)6月、父義時が急死し、鎌倉に戻ると、継母の伊賀の方が実子の政村を執権に立てようとする伊賀氏事件が起きた。伯母の北条政子は大江広元と相談して、泰時を時房とともに執権に任じ、伊賀の方らを処罰した。泰時は42歳で第3代執権となった。父の遺領の配分では弟妹に多く与え、自分の取り分はわずかだったという。1225年に広元が、続いて政子が亡くなると、泰時は政子の干渉から解放されて独自の政治を行えるようになった。叔父の時房を京都から呼び戻し、のちに連署と呼ばれる次位の役につけた。続いて三浦義村ら有力御家人と幕府の事務官僚から11人の評定衆を選び、執権2人を加えた13人の評定会議を、幕府の最高機関とした。同年12月に幕府の御所を宇都宮辻子に新造して、合議による執権政治の出発を示し、翌1226年には藤原頼経が将軍となった。鎌倉の町には京都と同じ戸主や保の制度を取り入れ、和賀江島の港の完成も助けた。

私生活では不幸が続いた。1227年6月に16歳の次男時実が家臣に殺され、1230年6月には長男の時氏が28歳で病没した。翌月に出産した三浦泰村の妻である娘も、子を10日余りで亡くし、8月に25歳で世を去った。

1231年(寛喜3年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威をふるい、泰時はその対応に追われた。この社会不安も、式目制定の背景にあった。承久の乱ののち、新しく任じられた地頭の行動や収入をめぐる紛争が各地で起きていた。泰時は京都の法律家に律令の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に学んだ。泰時を中心に評定衆が案を練り、貞永元年8月10日(1232年8月27日)に、全51か条からなる基本法典が完成した。のちに御成敗式目、あるいは貞永式目と呼ばれる。泰時は武士の健全な常識である「道理」を基準とし、先例も取り入れてこの法典をまとめた。日本で最初の武家法典である。1235年には、石清水宮と興福寺、延暦寺をまきこんだ大きな寺社の争いが起こり、泰時は強い手段で寺社の勢力を抑えた。1242年(仁治3年)6月15日に没した。在職18年は、鎌倉幕府の執権のうちで最長であった。

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