伝記
ムイズッディーン・バフラーム・シャーは、北インドのデリー・スルターン朝(奴隷王朝)の第六代君主である。デリーのスルターンのイルトゥトゥミシュの息子で、先代のラズィーヤの弟にあたる。生年は一二一二年七月九日とも、一二〇五年以降ともいわれる。在位は一二四〇年から一二四二年までの二年間だった。ことさら優れた才能を示した人物ではないという。
一二四〇年、姉のラズィーヤが遠征中に反乱で捕らえられた。バティンダの総督マリク・アルトゥーニヤに囚われ、アルトゥーニヤとバフラームはともに姉への陰謀を企てていたといわれる。テュルク系の有力な貴族たち、いわゆる「四十人組」(チェハルガーニー)は、これを機にバフラームをデリーで擁立した。四月二十一日、ラール・マハルで即位したとされる。その後、牢を脱したラズィーヤの軍がデリーに進軍してきたが、バフラームはこれを破り、十月には姉との争いに決着をつけて地位を確かなものにした。ただし、バフラームはトルコ系貴族がラズィーヤに対抗するために擁立したにすぎず、実権は貴族の一人で摂政のマリク・イフティヤールッディーン・アイトゥキーンに握られていた。アイトゥキーンはバフラームの妹と結婚したばかりか、象を持ち、自邸の前で日に三度音楽を演奏させるなど、事実上の王のようにふるまった。
バフラームは、この横暴に耐えきれなくなり、アイトゥキーンの暗殺を計画して、一二四〇年七月に実行した。代わりにバドルッディーン・スンカルを重職に据えたが、彼もまた権力を握り、バフラームの打倒を計画した。計画が露見すると、バフラームはスンカルと賛同者数人を殺した。こうした行いは、バフラームとテュルク系貴族の対立を深めた。治世のうちに、デリーにモスクを一つ建てたという。
一二四一年の冬、オゴデイ・ハーンの派遣したモンゴル軍が北インドに侵攻し、パンジャーブに入ってラホールを攻め、多数の人々を虐殺した。モンゴルの将ダイールは、十二月三十日にラホールの攻略中に戦死したが、そののちモンゴル軍はデリー・スルターン朝の領内から引き上げた。バフラームは応戦のため、チェハルガーニーらテュルク系貴族をデリーから出陣させたが、彼らは自分たちを死なせようとしているのだと思い込み、軍はサトレジ川のほとりで止まってデリーへ引き返した。こうして、デリーはテュルク系貴族に三か月にわたって包囲され、一二四二年五月に攻略された。バフラームは投獄され、五月十五日に殺された。
そのとき、マリク・イズッディーン・バルバンという人物が王位を宣言したが、チェハルガーニーには認められず、一人芝居に終わった。貴族たちは、先に没したルクヌッディーン・フィールーズ・シャーの子で、バフラームの甥にあたるアラーッディーン・マスウードを新しい君主にすえた。
同じ年に亡くなった人物
- 四条天皇 (1242年没)
- アブドゥルワーヒド2世 (1242年)
- Garsende (1242年没)
- チャガタイ (1242年没)
- 順徳天皇 (1242年没)
同じ地域に関係する人物
- ハキーム・アジュマル・ハーン (1927年没)
- Shanti Swaroop Bhatnagar (1955年没)
- ムイズッディーン・カイクバード (1290年没)
- サアーダト・アリー・ハーン (1739年没)
- バフルール・ローディー (1489年没)