HISTORICAL PERSON · 1932年没

マヌエル2世 (ポルトガル王)

ポルトガル王国の最後の国王。父王と兄が暗殺されたため1908年に即位したが、1910年に在位を終えた。

生涯
1932年没
死亡地
イギリス連邦(リッチモンド・アポン・テムズ区 / ロンドン)
出生地
ポルトガル共和国(ベレン宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(リッチモンド・アポン・テムズ区)

伝記

マヌエル2世は、1889年3月19日、リスボンのベレン宮殿に、国王カルロス1世と王妃アメリア(フランス国王ルイ・フィリップの曾孫)の次男として生まれた、ポルトガル王国最後の国王で、「愛国王」と呼ばれる。生まれたときにベージャ公爵の称号を授けられた。洗礼では母方の祖父であるパリ伯が代父、父方の祖母マリア・ピアが代母を務めたという。国王の次男であったため、政治に関わる教育は受けず、将来王になるとは考えられていなかった。6歳にはフランス語を読み書きし、言語や歴史、音楽を学んだ。早くから書物と学問に親しみ、運動を好んだ兄とは対照的であった。1903年には母と兄とともに王室のヨットでエジプトを訪れて、古代文明の知識を深め、1907年には海軍学校への入学準備を始めて、海軍の道に進むつもりでいた。

その将来は、1908年2月1日に突然断たれた。父カルロス1世と兄の王太子ブラガンサ公爵ルイス・フィリペが、リスボンのテレイロ・ド・パソで、急進的な共和主義者に暗殺されたのである。父王の放漫な財政に由来する社会不安が背景にあったとされる。マヌエルも腕を負傷したが、父は即死し、兄は20分後に息を引き取り、マヌエルは18歳で王位に就いた。最初の決断として国務会議を開き、力による政治で悲劇の責任を問われた首相ジョアン・フランコを解任し、フランシスコ・ジョアキン・フェレイラ・ド・アマラル提督を首班とする内閣を作った。これは一時は人心を鎮めたが、共和派には弱さと映り、結果として王政の立場を弱めたとされる。5月6日には議会で国王として迎えられ、憲章を守ると誓い、この誓いは亡命後も破らなかったという。

即位後は慣例から離れることもあり、毎年1月1日の拝謁の儀で臣下に手の接吻をさせなかった最初のポルトガル王とされる。父の直接の政治介入が悲劇の原因と考えたマヌエルは、王は君臨すれども統治せずを原則とし、政務への直接の関与を控えた。ただ、都市の労働者階級の窮状を扱う「社会問題」には、国王自身が取り組んだ。立憲君主としての務めを破らずに社会党を後押しし、都市の労働者の支持を共和党から引き離そうとしたとされる。しかし王政は立て直せず、自由選挙が行われた後の1910年10月4日に革命が起きて王政は廃止され、共和政が成立した。マヌエルはジブラルタルを経てイギリスへ亡命した。国内の王党派は復古運動を続けたが、1910年にブラガンサ家の復活に失敗している。同じ頃、日本の華族の有馬頼寧は、ロンドンで雨の中に立つ亡命国王の写真を見て衝撃を受け、社会改革の必要を痛感して帰国したという。

1913年9月4日、ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン侯ヴィルヘルムの娘アウグステ・ヴィクトリアとイギリスで結婚した。亡命後は、中世からルネサンス期のポルトガル文学についての貴重な書物の執筆を、ライフワークとした。1932年7月2日、ミドルセックスで没し、ポルトガル本土ではサラザール体制の下で国葬が行われた。子がなかったため、死の前に、対立するミゲル派の王位請求者ドゥアルテ・ヌノを後継者に指名し、これにより彼がポルトガル王位請求者として統一された。

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