伝記
ロナルド・ロスは、1857年5月13日、イギリス領インド北西部のアルモーラーに生まれた医学者である。父キャンベル・クレイ・グラント・ロスはインド軍の将軍で、10人兄弟の長子であった。8歳のときに英国へ送られ、ワイト島の叔母夫妻のもとで育ち、ライドの小学校を経て、1869年にサウサンプトン近郊の寄宿学校に入った。幼い頃から詩や音楽、文学、数学に熱中し、14歳で数学の賞を取り、16歳で絵画の試験の首席となった。作家になりたかったが、父の手配で1874年にロンドンのセント・バーソロミュー病院付属医学校に入学し、本気になれないまま、作曲や詩、戯曲の執筆に時間を費やした。1880年に学校を去り、1879年には王立外科医師会の試験に合格しており、大西洋航路の船医として働きながら、薬剤師協会の免許を目指した。二度目の挑戦で1881年に資格を得て、陸軍軍医学校で4か月の訓練を受けたあと、同年4月5日にインド医務官に任命され、マドラス管区に配属された。
1881年9月22日に船でインドへ向かい、1894年までマドラス、ビルマのモールメイン、バルチスタン、アンダマン諸島、バンガロール、セカンダラバードなど各地に勤務した。1883年にバンガロールで駐屯地の外科医代理を務めたとき、蚊が水に近づけないようにすれば蚊を抑えられる可能性に気づいている。1894年に休暇で帰国して、4月10日にパトリック・マンソン卿に初めて会った。マンソンは以後ロスの師となり、マラリア研究の核心となる問題を教え、研究にはインドこそ最適の地だと信じていた。1895年4月24日にセカンダラバードに戻ったロスは、荷物の通関も終わらないうちにボンベイの市民病院へ向かい、マラリア患者を探して血液標本を作り始めたという。同年5月には、蚊の胃の中でマラリア原虫の初期の段階を観察したが、コレラの流行の調査のためバンガロールに派遣され、研究は中断した。1896年5月には、休暇でウーティ周辺のマラリアの多発地を訪れ、毎日キニーネを飲んでいたにもかかわらず、到着の3日後に重いマラリアにかかった。
2年にわたる失敗の後、1897年7月、ロスは採集した幼虫から褐色の蚊20匹を育てた。患者フセイン・カーンから1匹に1アンナ、計8アンナの報酬で血を吸わせて蚊に感染させ、解剖した。8月20日、蚊の消化管の中にマラリア原虫がいるのを確認し、翌21日にはその増殖を確かめた。この蚊は、のちにハマダラカ属の一種と判明した。発見は同年8月27日にインド医学雑誌に、12月に英国医学雑誌に発表され、マラリアが蚊によって媒介されることを示し、防圧法の基礎となった。この功績により、1902年にノーベル生理学・医学賞を受けた。
1901年に王立協会フェローに選ばれ、1902年にはリヴァプール大学の熱帯医学の教授に就任して10年ほど務めた。1909年にロイヤル・メダルを受け、1911年にナイトに叙勲され、1923年にはアルバート・メダルを受けた。詩や小説、数学の研究も出版し、伝記文学でジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受けた。1926年には、その業績を記念して設立されたロンドンのロス熱帯病研究所および病院の責任者となり、1932年9月16日に死去するまで務めた。
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