伝記
ヴィヴィアン・リーは、本名をヴィヴィアン・メアリ・ハートリーといい、1913年11月5日、英領インド帝国のダージリンにあるセント・ポール・スクールの寄宿舎で生まれた。父アーネストは、10代でインドに渡り、小間使いから始めて株式ブローカーとして財産を築いた人物で、母ガートルードは母の代からインドに住む家の出である。二人は1912年にロンドンで結婚していた。ヴィヴィアンは一人娘であった。3歳のとき、母が加わっていた素人劇団の舞台に立ち、童謡を歌った。母は児童文学のほか、ギリシア神話やインドの民間伝承も読み聞かせて、娘に教養を身につけさせようとした。6歳で母の意向によりインドを離れ、ロンドン南西部ローハンプトンのカトリック女子修道院付属学校に入った。ここで知り合った2歳年上の友人モーリン・オサリヴァンには、「立派な女優」になりたいという夢を語っている。その後、父のヨーロッパ旅行に従って各地の学校を転々とし、1931年にイギリスへ戻った。すでに女優になっていたオサリヴァンの映画を観たことから、両親に女優になりたいと告げ、ロンドンの王立演劇学校に入学した。
同じ1931年に13歳年上の法廷弁護士ハーバート・リー・ホルマンと出会い、1932年12月20日に結婚して、演劇学校を退学した。翌1933年10月12日に一人娘のスーザンが生まれた。友人たちの勧めで1935年の映画の端役に出て、女優としてデビューしたが、代理人が「ヴィヴィアン・ホルマン」では女優にふさわしくないと考え、代理人の提案した「エイプリル・モーン」が気に入らなかった彼女は、夫のミドルネーム「リー」を借り、名の綴りも変えて芸名を決めた。代理人が映画監督アレクサンダー・コルダに彼女を推薦したときは、将来性がないと断られたが、同年の舞台『美徳の仮面』に出て高い評価を受け、観劇に訪れたコルダは前言を翻して映画出演の契約書にサインした。
『美徳の仮面』でリーを観たローレンス・オリヴィエは演技を賞賛し、二人の交友が始まった。1937年の映画『無敵艦隊』で初共演し、恋人同士を演じた。当時リーはハーバートと、オリヴィエは女優ジル・エズモンドと結婚していたが、二人は関係を深め、同棲を始めた。どちらの配偶者も離婚を拒んだ。同じ年、デンマークのヘルシンゲルで上演された『ハムレット』でオフィーリアを演じた。1938年の映画『響け凱歌』は、アメリカで最初に注目された出演作となった。
リーは、マーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』の映画化を知って、「スカーレット・オハラを演じたい」と公言していた。プロデューサーのセルズニックに面会を求め、最初は「あまりにイギリス的」と見なされたが、アメリカで映画を撮っていたオリヴィエを頼ってロサンゼルスに行き、スクリーン・テストを受けた。セルズニックは満足し、監督キューカーも「信じられないくらいに野生的だ」と賛成して、スカーレット役が正式に決まった。撮影は辛いもので、監督が更迭されてフレミングに代わると、しょっちゅう衝突した。リーは、同作でスカーレットを、1951年の『欲望という名の電車』でブランチをそれぞれ演じ、いずれもアカデミー主演女優賞を受けた。映画女優として有名になっても、活動の主軸は舞台にあった。1963年にはミュージカル『トヴァリッチ』でトニー賞を受けた。オリヴィエとの結婚は1940年から1960年まで続いたが、その頃から双極性障害に悩まされ、1940年代半ばから慢性の結核の発作にも見舞われた。1967年7月8日、結核のため死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴォルフガング・ケーラー (1967年没)
- アイザック・ドイッチャー (1967年没)
- アレクサンデル・ヴァット (1967年没)
- ルネ・マグリット (1967年没)
- ボブ・アンダーソン (レーサー) (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- アイザック・バロー (1677年没)
- アフマド・ビン・アリー・アール=サーニー (1977年没)
- Dave Sexton (2012年没)
- ポーラ・イェーツ (2000年没)
- ジョサイア・コンドル (1920年没)