伝記
ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアンは、1195年ごろ(1194年ともいわれる)に生まれ、1246年5月6日以降に没した第3代アカイア公である。父は第2代アカイア公ジョフロワ1世、母は公妃エリザベトで、本人は長男であった。父は1199年に第4回十字軍に加わり、ペロポネソス半島の大部分を占領した人物で、初代アカイア公ギヨーム1世の死後に公位を得た。父は就任後すぐにシャンパーニュに留まっていた妻を呼び寄せ、母はまだ幼い息子とともにギリシャへ渡って、現在のスパルタやカラマタにある城砦に居を構えた。
1217年、若きジョフロワ2世はラテン皇帝ピエール2世の娘アニェスと結婚した。1222年には、クレルモン城の建設をめぐる教会との対立から、父とともに破門をちらつかされたという。1229年ごろ、およそ35歳で父から公位を継ぐと、金の拍車を付けた80人の騎士に常に護衛される高貴な暮らしを送ったとされる。公位を継いだ時期は、1224年にギリシャ北部のテッサロニキ王国がエピロス専制侯国に滅ぼされ、アカイア公国などの十字軍国家とラテン帝国との間に強敵が現れた後にあたり、情勢は不安定であった。しかし1230年4月、エピロス皇帝テオドロス1世がクロコトニツァの戦いでブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世に敗れ、十字軍国家は危機を免れた。
ジョフロワ2世は地元のギリシャ人やスラヴ系の人々と良好な関係を築く政策をとり、公国は平和と繁栄を享受した。また、配下の男爵のもとへ頻繁に家臣を送り、男爵たちの暮らしぶりや、その家臣への扱いを探らせて統治に役立てた。評判は高く、はるばるフランスから彼に仕えようとやって来る騎士も多かったという。公国の富をもとに、主君であるラテン皇帝ジャン1世へ経済的な支援も行った。1236年には、ニケーア皇帝ヨハネス3世ヴァタツェスに包囲されたコンスタンティノープルを自ら救援し、100人の騎士、300人の弩兵、500人の弓兵を乗せた艦隊を率いて包囲網に突入した。ヴェネツィア人、ピサ人、ジェノヴァ人と連合してニケーア軍を退け、都を解放した。同じ年、ケファロニア伯マイオ1世が彼の宗主権を認めて支配下に入った。1237年7月には、アンドラヴィダの病院をチュートン騎士団に寄進した記録が残る。
1238年、ヴェネツィアとともに軍船を率い、再びニケーア帝国に包囲されたコンスタンティノープルの救援に向かった。翌1239年には、上級君主であるシャンパーニュ伯テオバルド(詩人王)に従って十字軍に加わることを望んだが、教皇グレゴリウス9世からコンスタンティノープルの死守を目標にギリシャ人への遠征を行うよう命じられ、聖地行きを取りやめたという。1240年2月9日、教皇は、聖地へ向かうという誓いは窮地のラテン帝国を継続して支えた功績によってすべての利益とともに果たされたものとみなす、との決議を出した。1243年には、義弟のラテン皇帝ボードゥアン2世が死んだという誤った噂が流れ、その息子フィリップを補佐するため、コンスタンティノープルへ向かった。こうした帝都の3度の救援の報償として、ボードゥアン2世からエヴィア島の宗主権を与えられた。
1246年、ジョフロワ2世は没し、首都アンドラヴィダにある聖ヤコブ修道院の教会に葬られた。跡は弟のギヨームが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- テオドラ・アンゲリナ (1246年)
- ミハイル2世 (キエフ大公) (1246年没)
- ルトガルディス (聖人) (1246年没)
- カリマン1世 (1246年没)
- フリードリヒ2世 (オーストリア公) (1246年没)
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