伝記
フリードリヒ2世は、1211年4月25日にウィーナー・ノイシュタットで生まれ、1246年6月15日に没した、バーベンベルク家最後の第5代オーストリア公である。父は第4代オーストリア公レオポルト6世、母はビザンツ帝国の皇女テオドラ・アンゲリナで、兄たちが早世し、1228年に兄ハインリヒが亡くなると、オーストリアとシュタイアーマルクの公位を継ぐ唯一の跡継ぎとなった。仇名は喧嘩公、あるいは闘争公といい、近隣諸国との戦いを繰り返したことによる。
最初の妻は、ニケーア皇帝テオドロス1世ラスカリスの娘と思われるゾフィー・エウドキアで、1222年までに離婚した。1229年にはメラーン公オットー1世とブルゴーニュ女伯ベアトリス2世の娘アグネスと結婚した。アグネスは断絶したアンデクス家の相続人で、持参金にはクライン地方の大きな所領が含まれていた。1230年、父が急死してフリードリヒ2世が公位を継いだが、まだ若く、治世は当初から不安定だった。それまで忠実だったクーエンリング家の家臣たちも、治世の始まりとともに蜂起した。国内の反乱は鎮圧したものの、バイエルンやハンガリー、ボヘミアへの攻勢に失敗し、財政の悪化と重税による国民の反発を招いた。1232年からは、自らを「クラインの領主」と称した。
同名の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とも対立した。皇帝の子で公の姉マルガレーテの夫でもあるハインリヒ(7世)が反乱を起こすなか、公は1232年のアクイレイアの帝国議会への出席を拒み、ハンガリー王ベーラ4世との争いでも皇帝の不興を買い、義弟の陰謀にも関わっているようにみえた。1235年のマインツの帝国議会にも出なかったため、皇帝は公を追放し、ボヘミア王ヴァーツラフ1世にオーストリアへの侵攻を許した。ウィーンはボヘミアとバイエルンの連合軍に門を開き、公の追放中は帝国自由都市となった。領土の多くは没収されたが、公はウィーナー・ノイシュタットの居城でオーストリアの残りの部分の君主の地位を保った。
1239年、公は皇帝の最も重要な同盟者の一人となった。1241年にモンゴル帝国のハンガリー侵入が始まると、公は少数の騎士をハンガリーへ送り、モヒの戦いの初期にモンゴルの小部隊を破ったが、ベーラ4世やクマン人との対立からほどなく引き揚げた。その後、オーストリア国内に入った小部隊も撃退したとされる。一方で、このどさくさにまぎれてハンガリーなど近隣諸国にたびたび侵入して領土を奪ったため、近隣諸国はもとより、自国の貴族や国民にも半ば見捨てられた。公はやむなく貴族に大幅な特権を与えて支持をつなぎとめた。
公は宮廷風の舞踏歌の新しい形式や主題を好み、ナイトハルト・フォン・ロイエンタールやタンホイザーを庇護し、自ら舞踏の輪に加わって音頭をとったという。ナイトハルトは歌で公をたたえ、立派な館を賜ったと謝意を述べている。二度の結婚はいずれも嗣子を得られず、アグネスとの婚姻は1240年とも1243年ともいわれる時期に解消された。1246年、ライタ川の戦いでハンガリー王国とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍に敗れ、35歳で戦死した。遺体はハイリゲンクロイツ修道院の集会室の石棺におさめられた。この死でバーベンベルク家のオーストリア支配は終わった。姪の夫であるバーデン辺境伯ヘルマン6世らが相続権を主張したが、公の姉マルガレーテの夫であるボヘミア王オタカル2世が領有し、1278年にオタカル2世が戦死すると、ローマ王ルドルフ1世が獲得して、オーストリアはハプスブルク家の家領となっていった。
同じ年に亡くなった人物
- イザベラ・オブ・アングレーム (1246年没)
- ベレンゲラ (カスティーリャ女王) (1246年没)
- テムゲ・オッチギン (1246年没)
- ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン (1246年没)
- ドレゲネ (1246年没)
同じ地域に関係する人物
- ラドノーティ・ミクローシュ (1944年没)
- フリードリヒ・フォン・エスターライヒ=テシェン (1936年没)
- ステファニー・ド・ベルジック (1945年没)