HISTORICAL PERSON · 1246年没

テムゲ・オッチギン

チンギス・カンの末弟。フルンボイル地方にオッチギン・ウルスを開き甥オゴデイの擁立に尽力したが、晩年は帝位簒奪の疑いで審問を受けた。

生涯
1246年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

テムゲ・オッチギンは、1168年ごろに生まれ、1246年に没したとされるモンゴル帝国の皇族で、チンギス・カンの末弟である。父イェスゲイ・バアトルと母ホエルンとの四男にあたり、同母の兄にジョチ・カサルとカチウンがいる。チンギス・カンより6歳年下とされ、「テムジンが9歳のときテムゲは3歳だった」という記述もある。オッチギンとは「炉の番人」を意味し、末子として母の家産を相続する立場にあったことからこう呼ばれた。幼いころは母や兄たちに甘やかされ、ぜいたくを好んだが、戦いでは勇敢で力強く素早いと、一族の敵にさえ認められていたという。

チンギス・カンが即位すると、母とともに多くの土地と人々を与えられた。5つの千人隊を授かり、さらに母が与えられていた3つの千人隊も継いで、8つの千人隊を持つに至った。領地はモンゴル東方の左翼で、満洲に接するフルンボイル地方にあり、ジョチ・カサルやカチウンの子孫ら東方の王侯を統率する左翼の中心人物となった。シャーマンのココチュが一族に対する影響力を自分の家へ移そうとしたとき、チンギス・カンは、力くらべの場でテムゲにココチュを殺すことを許したという。一方で、兄からは怠け者で気まぐれだと批判されたともいわれる。

ナイマンの討伐で戦功を立て、1211年に始まる金への第一次侵攻では左翼軍を率いて遼西や山東の方面へ進んだ。このとき獲得した永平路と益都路は、オッチギン家の領地として元代末期まで受け継がれた。1219年からの西方遠征では、母のホエルンとともにモンゴル本土の留守を任された。この間、東夏国の蒲鮮万奴が高麗に対して、チンギス・カンは遠方に赴いて所在が知れず、オッチギンは貪欲で乱暴であり、モンゴル帝国との旧好はすでに絶った、と伝えたとの記録がある。1227年の第五次西夏遠征では、本隊とは別に行動して信都府を攻略した。同じ年にチンギス・カンが没すると、甥のチャガタイとともにオゴデイを新しい指導者に推した。1230年からの第二次対金戦争では左翼軍を率いて中都から黄河へ南下し、軍は黄河を渡らなかったものの、おびえた金の領民が開封周辺へ逃れたため、金に食糧危機と社会不安が生じた。

1241年末にオゴデイが没すると、オッチギンはカアンの位を求めて軍を率い、オゴデイの皇后たちのオルドへ向かった。しかし皇后ドレゲネに阻まれ、征西から戻ったオゴデイの皇子グユクがエミルに着いたという知らせを聞くと、帝位を断念した。ドレゲネに弔問に来たと伝えて軍を引き返し、その後はクリルタイやグユクの即位式に出席した。オゴデイと、続くチャガタイの急死にオッチギンの関与を疑う意見もある。グユクの即位後、オッチギンは帝位をうかがった件で、トルイ家のモンケとジョチ家のオルダから審問を受けた。配下の将校たちの処刑で決着したが、この前後にオッチギン自身も没したとみられ、処刑されたともいわれる。

勇気のある性格で、派手好みであり、領地に宮殿や庭園を多く造ったといわれる。内モンゴルのフルンボイルにあるバヤンウラ城址は、その居城、すなわち夏の宿営地ではないかと推定されている。子孫のタガチャルはクビライの有力な重臣となり、元朝の設立にも貢献した。ところがタガチャルの孫ナヤンはカイドゥの反乱に連座し、クビライの親征で処刑された。北元の時代の初めには、末裔の遼王アジャシュリが明に投降し、オッチギン家の領地は泰寧衛の名を与えられた。15世紀半ばに遼王ウネ・テムルが活動した後、オッチギン家は断絶した。

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