伝記
ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダは、中世カスティーリャ王国の聖職者、政治家、歴史家である。1170年ごろ、ナバラ王国のラダ、またはプエンテ・ラ・レイナで、下級貴族の家に生まれた。父はナバラ王サンチョ7世の宮廷に仕えたヒメノ・ペレス・デ・ラダ、母はエバ・デ・イノホサである。1195年から1199年ごろにボローニャ大学で哲学と法学を、その後およそ4年間パリ大学で神学を学び、1201年に遺言書を書いた。多くの言語に通じ、アラビア語も身につけていた。1203年にナバラへ戻り、サンチョ7世の宮廷で側近となった。1207年に、カスティーリャとナバラの間のグアダラハラの協定をまとめたことで、カスティーリャ王アルフォンソ8世の信頼を得た。1208年にオスマ司教に選ばれたが、叙階を受ける前にトレド大司教が亡くなり、聖堂参事会が後任に選んだため、翌1209年2月に教皇インノケンティウス3世の承認を受けてトレド大司教となった。
トレド大司教はスペインの首座大司教として他の大司教に権限をもっていた。ラダはこの権限を守り通した。当時、レコンキスタはキリスト教諸国が争って停滞しており、ラダは団結を呼びかけたが、はじめは効果がなかった。教皇の後ろ盾を得て調停を続け、1209年にナバラ王とアラゴン王、カスティーリャ王とレオン王をそれぞれ和睦させた。1211年から翌年にかけて、諸国に共同戦線を築く使命を帯びて各国をまわり、ローマで教皇から休戦の命令を受けた。南フランスでは十字軍の勧誘に成功し、多くの司教や騎士がカスティーリャに集まった。1212年7月16日のナバス・デ・トロサの戦いにも従軍し、アルフォンソ8世とともに中央の後備に入った。一時、ムワッヒド軍の攻撃でキリスト教連合軍が崩れかけたが、うろたえた王をラダがなだめ、立ち直った連合軍が反撃して勝った。のちに書いた『ゴート史』では、ムスリムを20万人殺したと勝利を誇張する一方、フランス人たちが戦う前に帰国したことを批判している。戦いのあとの1214年には、国境の守備隊やカラトラバ騎士団を援助し、重病の王に代わって辺境の防衛を維持した。褒美にトレドへ20の村を授けられた。同年、アルフォンソ8世が亡くなった。
王位が目まぐるしく変わったため、レコンキスタは1224年まで中断した。ラダは1215年から翌年の第4ラテラン公会議にスペインの高位聖職者を率いて出席し、十字軍の呼びかけなど教会改革をカスティーリャに導入した。反ユダヤ人の条項は実行しなかった。1217年には教皇ホノリウス3世から新たな十字軍を組織する教皇特使に任命され、翌年に十字軍を結成したが、1218年のカセレス包囲や、1219年と1220年のレケナ包囲は失敗し、指揮はレオン王アルフォンソ9世に交代させられた。それでも幼い王フェルナンド3世の信頼を得て、補佐役を務めた。
フェルナンド3世がレコンキスタを主導すると、ラダは南部の植民や教会の組織化に従事した。1226年にはトレドで王とともに大聖堂の礎石を置いた。1236年にコルドバが降伏すると、代理人を通してモスクを司教座聖堂に改めた。トレドの翻訳学派を支援し、クルアーンの翻訳やイブン・トファイルの著書のラテン語訳も求めた。1243年には、アラビアの文献にも拠りつつ『ゴート史』を書き上げた。
1247年、ラダはフランスのリヨンで教皇インノケンティウス4世と会見し、帰途にローヌ川で乗った船が転覆して6月10日に亡くなった。遺体はカスティーリャへ運ばれて葬られた。翻訳事業はのちにアルフォンソ10世に引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ4世 (リンブルフ公) (1247年没)
- アガフィヤ・スヴャトスラヴナ (1247年)
- 巴御前 (1247年)
- エルメジンデ (ルクセンブルク女伯) (1247年没)
- ハインリヒ・ラスペ (テューリンゲン方伯) (1247年没)
同じ地域に関係する人物
- ハリー・ケスラー (1937年没)
- クロード・トマ・アレクシス・ジョルダン (1897年没)
- モアナ・ポッツィ (1994年没)
- サン=マール侯爵アンリ・コワフィエ・ド・リュゼ (1642年没)
- Lucien Jasseron (1999年没)