伝記
サーリフは、正式にはアル=マリク・アッ=サーリフ・ナジュムッディーンといい、アイユーブ朝の第7代スルターンである。1205年ごろ、カイロで生まれた。父は第5代スルターンのアル=カーミルで、スーダン出身の女性が産んだ子といわれる。1221年には、第5回十字軍の終わりに人質として差し出され、ジャン・ド・ブリエンヌと交換されたという。1227年か1228年に父から後継者に指名されたが、1229年か1230年に、異母兄弟アーディル2世の母アッ=シット・アッ=サウダーが、サーリフは王座を狙っていると父に告げたため、継承権を奪われ、部下の多くが捕らえられた。
1238年にカーミルが亡くなると、アーディル2世がスルターンに即位した。サーリフは父の命でラフバを包囲していたが、父の死を知ってこれを切り上げようとしたため、配下のフワーリズム勢が反発して敵に回った。スィンジャールにこもってやり過ごしたサーリフは、フワーリズム勢と和解し、攻めてきたモスルの君主バドルッディーン・ルゥルゥを退け、アーミドを囲んでいたカイホスロー2世も撃退した。従兄弟ユーヌスの確保したダマスカスに入ったが、そこを離れた隙にカラクのアル=ナースィル・ダーヴードに捕らえられた。のちに解放され、アーディル2世がクーデターで廃位されると、エジプトの有力者たちに招かれてエジプトを掌握した。1240年6月19日にカイロに入り、スルターンとして即位した。先の3人のスルターンに比べて威信に欠け、叔父や兄弟、甥の一部は忠誠の誓いを拒んだ。エジプトでも、有力な一派が叔父のサーリフ・イスマーイールを担ごうと企て、サーリフは頼れる兵を欠いて、キプチャク出身の奴隷兵を大量に買い入れた。これがマムルークである。
ナイル川のローダ島に兵営を置いた部隊は、バフリー・マムルークと呼ばれた。バフルとはアラビア語で「海」を意味し、カイロの人々はナイル川をそう呼んでいた。のちにスルターンとなるバイバルスやカラーウーンも、この部隊に含まれる。1244年、フワーリズム勢がエルサレムを奪うと、サーリフはマムルークの武将バイバルス(のちのスルターンとは別人)を送ってフワーリズム勢と手を結び、ダマスカスの勢力と十字軍の連合軍をガザ近郊のラ・フォルビーで破った。エジプト軍はシリア各地で領地を広げ、十字軍国家は弱体化した。戦後、サーリフがフワーリズム勢に地中海岸の一地域を与えたところ、不満を抱いた彼らはダマスカスの駐留軍を襲ったが、1246年5月にアイユーブ家が連合して彼らを破った。
1248年、フランス王ルイ9世はエジプトを攻めるために出発し、キプロスを経て、翌1249年6月にダミエッタを占領した。サーリフはその動きを、父の代からの友好関係を通じて神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世から知らされていたが、すでに重病であった。ダミエッタが奪われると、父にならって、ダミエッタの放棄と引き換えにエルサレムを含むシリアの領土を譲ると申し出た。ルイがこれを退けたので、病身を押してマンスーラへ向かったが、攻防戦が始まる直前の1249年11月22日に陣中で没した。妻のシャジャル・アル=ドゥッルは夫の死を隠して指揮を執り、その間にバフリー・マムルークの活躍で十字軍は退けられた。
彼のもとでアイユーブ朝の治安はよく保たれ、人の往来の安全も確保された。蓄財を好み、建築も好んで、ローダ島のシタデルやカイロとローダ島を結ぶ橋、球技場を造らせた。歴史家マクリーズィーは、サーリフを勇敢で不屈の王としつつ、矜持と野心に結びついた厳しさと高慢さのために恐れられたと評した。
同じ年に亡くなった人物
- Pietro della Vigna (1249年)
- アブー・ザカリーヤー1世 (1249年没)
- ミハイル・ホロブリト (1249年)
- 宋慈 (1249年没)
- ジャン1世 (ドルー伯) (1249年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・メトワリー・アルシャアラウィ (1998年没)
- ロベール1世 (アルトワ伯) (1250年没)