HISTORICAL PERSON · 1249年没

アブー・ザカリーヤー1世

ムワッヒド朝からイフリーキヤを独立させてハフス朝を建国。ガーニヤ族の反乱を鎮圧し、チュニスを政治都市として発展させた。

生涯
1249年没
死亡地
チュニジア共和国(チュニス県 / チュニス)
出生地
モロッコ王国(マラケシュ)
出典
世界地図
チュニジア共和国(チュニス県)

伝記

アブー・ザカリーヤー1世は、現在のチュニジアとアルジェリア東部にあたるイフリーキヤを支配したハフス朝の建国者である。名はヤフヤーといい、生年は分かっていない。祖父のハフス・イブン・ウマルは、12世紀の宗教運動の指導者イブン・トゥーマルトの門弟であった。父アブドゥル・ワーヒドはムワッヒド朝の下でイフリーキヤの総督を務め、副王に近い権限を持って、1207年から1221年まで同地を治めた。

アブー・ザカリーヤーは若いころセビリアの太守を務め、1223年にイフリーキヤのチュニスに移った。ガベスの総督を務めていたともいわれ、1228年にはイフリーキヤ総督の地位に就き、この地方の支配権を握った。その直後の1229年、ムワッヒド朝の君主イドリース・マアムーンが、イブン・トゥーマルトの掲げたタウヒード思想を公式に否定した。ムワッヒド朝内の多くの者がこの宣言に否定的だったなか、アブー・ザカリーヤーは、トゥーマルトの教えと運動の精神を守るという大義を掲げ、金曜礼拝の説教からマアムーンの名を削った。そして同じ1229年に、独自にアミールの称号を名乗った。1236年(1237年ともいわれる)からは説教に自分の名を入れ、ムワッヒド朝からの独立の意思を示した。ムワッヒド朝の政治的権威は否定したが、その教義そのものは認めていたため、モロッコやアンダルスの各地にも、ハフス朝の正統性を認める者が現れた。

イフリーキヤでは、12世紀からムラービト朝の後継勢力であるガーニヤ族がムワッヒド朝に抵抗を続けていた。1230年にはコンスタンティーヌとビジャーヤを押さえ、1233年にガーニヤ族の指導者ヤフヤーを捕らえ、1234年までにその反乱を鎮めた。1235年にはアルジェも手に入れ、東方ではトリポリタニアの沿岸部全体を支配下に置いて、ハフス朝の基礎を築いた。1238年には、アルジェリアとチュニジアの間に住むハッワーラ族も従えた。同じ年、アラゴン王ハイメ1世の軍がバレンシアに迫ると、ザイヤーン・イブン・マルダニーシュが助けを求めてきたため、アブー・ザカリーヤーは救援の艦隊を送った。だが船は上陸できずに退き、バレンシアは9月28日にハイメ1世の手に落ちた。1239年には、シチリアを治める神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と友好的な関係を築き、帝国への貢納と引き換えに、海上交易の権利とシチリア産小麦を輸入する権利を得る協定を結んだ。プロヴァンス、カタルーニャ、イタリア半島の都市国家から商人が訪れるようになったのも、この政治的な安定のおかげである。

1240年ごろには、ザイトゥーナ大モスクの近くにアッ=シャンマイーヤ・マドラサを建てた。ムワッヒド朝の時代には城砦にすぎなかったチュニスも、彼のもとで小規模な政治都市へと発展した。1241年にはアリカンテに艦隊を送って奪ったが、まもなく撤退している。1242年には重大な陰謀を退け、強大な軍を率いて、ザイヤーン朝の首都トレムセンを7月に占領した。ザイヤーン朝の王ヤグムラーサン・イブン・ザイヤーンは逃げたが、アブー・ザカリーヤーは王を元の座に戻し、臣従を誓わせた。ムワッヒド朝から独立したマリーン朝とナスル朝も、彼の宗主権を認めた。同じ1242年にはセビリアがハフス朝派遣の総督を受け入れ、1246年までそれが続いた。1242年12月にムワッヒド朝のカリフ、アブドゥル・ワーヒド2世が没すると、彼はマグリブでもっとも強力な支配者になったとされる。1248年11月23日にはセビリアがカスティーリャに占領され、アブー・ザカリーヤーは翌1249年に世を去った。

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