HISTORICAL PERSON · 1933年没

アドルフ・ロース

20世紀オーストリアの建築家。モダニズムの先駆的な作品を残し、1908年に「装飾は罪悪である」と宣言して建築界に波紋を呼んだ。アメリカで見た高層ビルに影響を受けた。

生涯
1933年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
チェコ共和国(ブルノ)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

アドルフ・ロースは、1870年12月10日にモラヴィア地方のブルノで生まれたオーストリアの建築家である。ゲルマン系の出自で、父は彫刻家であり石工だった。その父は彼が11歳のときに亡くなったとされる。生まれつき難聴で、12歳の頃に一部回復した。反抗的な少年で、建築学校への入学に何度か失敗し、ボヘミアのライヘンベルクの工芸学校に進んだ。1890年から1893年にドレスデンの工科学校に通ったが、建築家の資格は得られなかった。1893年にシカゴの万国博覧会を見るためアメリカへ渡り、1896年まで滞在して、皿洗いから記者まで様々な仕事をした。シカゴの高層ビルや実用的なデザインに触れた経験が、のちの美意識に大きな影響を与えたという。

1896年に帰国してからは、設計よりも執筆活動が先行した。さまざまな様式で飾られたウィーンの都市を「ポチョムキン都市」と皮肉り(1898年)、1908年には「装飾は罪悪(犯罪)である」と宣言した。ロースによれば、装飾は原始人の刺青と同じようなもので、装飾の多さは文化水準の低さを示す。この「装飾罪悪論」は、建築家オットー・ワーグナーの「芸術は必要にのみ従う」という合理主義・機能主義の主張をさらに徹底させたもので、過激な言論により「ウィーン分離派」や、ヨーゼフ・ホフマンらの「ウィーン工房」の装飾性を攻撃した。気難しく建築界では孤立気味であったが、批評家カール・クラウスは生涯の友で、1913年にクラウスがカトリックに入信する際には代父を務めた。画家ココシュカの才能をいち早く認めて作品を買い、父親代わりのような立場となり、作曲家シェーンベルクにも支援を惜しまなかった。

1899年のカフェ・ムゼウムは、内部が白い壁ばかりで室内装飾のない店だった。1907年のアメリカンバーでは、小さな店内に鏡や大理石をうまく用いて豊かな空間をつくった。1910年のシュタイナー邸、1912年のマンツ書店、1922年のルーファー邸、1930年のプラハのヴィラ・ミュラーなど、住宅や店舗の作品も残した。代表作のロースハウス(1909〜1911年)は、窓の飾りなどの装飾をそぎ落としたモダニズム建築の先駆である。ウィーンの王宮前の歴史的建造物が並ぶ一角に建ったため、当時は激しい非難を浴びて工事が一時中断し、最終的には窓辺に花壇をつけることで建設が許可された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこの建物を嫌い、面した窓と門を塞いだと伝えられる。

1912年にはアドルフ・ロース建築学校を設立した。第一次世界大戦後、チェコスロバキア政府から市民権を与えられ、1921年からはウィーン市の住宅建設局で主任建築家となって労働者住宅の設計にも尽力した。しかし自身の設計案が却下されたことをきっかけに1924年に退職し、翌年パリに移った。パリでは、ダダイストのトリスタン・ツァラの住居兼アトリエを設計している。晩年は絵を描いて過ごしたが、死の直前にすべて焼き捨てたという。帰国後の1928年に、子どもたちをモデルにしたことが原因で淫行の容疑をかけられ、執行猶予付きながら有罪判決を受けた。その後は脳障害に苦しみ、1933年8月23日に脳卒中で亡くなった。ウィーン中央墓地の、自身が設計した正方形の墓石の下に葬られている。

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