HISTORICAL PERSON · 1251年没

サキャ・パンディタ

チベット仏教サキャ派の宗教指導者で、五明に通じた当時第一の学者として、サキャの博士と称された。モンゴル皇子コデンの招きで涼州に赴き、チベットの武力征服を回避させた。甥のパクパを伴った。

生涯
1251年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(チベット自治区 / サキャ県)
出典
世界地図
中華人民共和国(チベット自治区)

伝記

サキャ・パンディタは、チベット仏教サキャ派の五人の先師の4番目に数えられる宗教指導者である。本名はクンガ・ギェンツェンといい、俗名をパンデン・トンドゥプという。サパンと略されることもある。1182年4月1日に、中世チベットの有力氏族であるコン氏の家に、サキャの地で生まれた。この家は、1073年のサキャ寺の創建以来、座主の位を世襲で受け継いでいた。父はパルチェン・オーポ、母はマチク・ニトリ・チャムで、父の兄にあたる伯父のジェツン・タクパ・ギェンツェンが、サキャ寺を主宰していた。

幼いときから伯父に戒を受け、顕教と密教の両方を学んだ。サキャ寺の学僧からは論理学や般若、教義の議論などを教わった。18歳のとき、夢の中でインドの学僧ヴァスバンドゥに会い、倶舎を学んだとされる。23歳で北インドのカシミールの高僧シャーキャシュリーバドラに会って教えを受け、1208年に具足戒を受けた。その弟子たちからも諸法を学んでいる。インドの外道者と論争して勝つなどして名声を得、五つの学問に通じた当時第一の学者だとして、サキャの博士を意味する「サキャ・パンディタ」の名で呼ばれるようになった。1216年に伯父が没すると、サキャの座主の位を継いだ。『三律儀分別』『量明蔵』『善説宝蔵』などの著書がある。仏教哲学、医学、文法、論理学、サンスクリット文学の五つの学問のほか、修辞、詩、音楽、舞踊、占星術にも通じ、伝承では文殊菩薩の化身とされる。

1240年、モンゴルのオゴデイの第2皇子コデンが派遣したドルタの軍が、チベット中央部に侵入した。ラサの北東で僧と俗人を数百人殺し、ギェンラカン寺などを焼いた。9世紀の吐蕃の滅亡以来、まとまった王朝を持たなかったチベットは、突然の侵攻に驚いた。翌1241年にオゴデイが亡くなると、モンゴルのチベット遠征はいったん中断された。それでもコデンはチベットの支配を試み、高名な僧としてサキャ・パンディタを招いた。ラデン僧院の座主がサキャ・パンディタに接触するよう勧めたともいわれ、ドリクン寺の座主の提案だったともいわれる。

サキャ・パンディタは、10歳か11歳だった甥のロドゥ・ギェンツェン、通称パクパと、6歳のチャクナ・ドルジェを連れ、1244年にサキャを出発した。道中でも説法を重ねながら長い旅を続けて、1246年に、コデンの封地である涼州に着いた。ところがコデンは、新しい大ハーンを即位させるクリルタイに出ていて留守だった。1247年にコデンが戻ると、サキャ・パンディタはその謁見を受け、皇子に灌頂と講義を行ったという。こうしてモンゴルによる武力でのチベット征服は避けられ、チベットは平和のうちにモンゴルに従った。以後は皇子の侍僧として、仏教の普及に努め、1251年12月28日に、涼州の東方にある蘭州のトゥルペー・デ寺で亡くなった。享年70であった。

甥のパクパは1253年に皇弟クビライに謁見してその侍僧となった。クビライがハーンに即位すると国師となり、パスパ文字を作った。この功績によって帝師となり、サキャ派によるチベット支配と、チベット仏教がモンゴルの庇護を受けるきっかけとなった。

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