HISTORICAL PERSON · 1054年没

アティーシャ

インドの仏教僧。ヴィクラマシーラ大学の僧院長を務めた後60代でチベットに渡り、弟子ドムトンが創始したカダム派の源流となり仏教中興の祖の一人となった。

生涯
1054年没
死亡地
中華人民共和国(チベット自治区 / ニェタン)
出生地
バングラデシュ人民共和国(ビコラーンプーロ)
出典
世界地図
中華人民共和国(チベット自治区)

伝記

アティーシャは、982年に生まれ1054年に没したとされる仏教僧で、インドのヴィクラマシーラ大学の僧院長を務め、主にチベットで活躍した。本名は月蔵、法名は燃灯吉祥智といい、チベットではジョウォ・ジェとも呼ばれる。ランダルマ王以降に衰退した中央チベットの仏教を再興した中興の祖の一人で、サキャ派のコンチョ・ギェルポ、カギュ派のマルパと並び称される。ベンガルの王家の生まれともいわれる。

チベットに伝わる文献によれば、若いころのアティーシャはインド北東部のナーランダー僧院で、ヴィシュヌ派、シヴァ派、ヒンドゥー教のタントラなど多くの教義を学び、音楽や論理学など64の教科を22歳までに修めた。無著・世親による弥勒菩薩の法脈(唯識派)と、龍樹・月称による文殊菩薩の法脈(中観派)も学んでいる。師事した師は150人にのぼった。28歳のとき、大衆部の僧院長戒護から得度を受け、燃灯吉祥智の法名を授かった。この名は、灯明のように照らし出す智をもつ人という意味だという。さらにシュリーヴィジャヤ王国のスマトラ島に留学して学んだ。インドに戻っても多くの師から教えを受け、論客としてもしばしば異教徒との論争に勝った。その功績が認められてヴィクラマシーラ大学の僧院長の地位を得た。

そのころチベットの仏教は衰えていた。中央チベットでは戒律を重んじる派と密教を重んじる派が対立し、とくに吐蕃のランダルマ王の時代に仏教が弾圧されて大きく衰退した。王の死後に吐蕃は崩壊したが、王族の一部は西チベットに移ってグゲ王国として存続した。その王族コレは仏法の研究に熱心で、梵語の原典を学ばせるため、ナクツォ訳師らをヴィクラマシーラ大学に留学させた。ナクツォ訳師は教師であったアティーシャに、チベットへの伝教を要請した。14世紀の『テプテル・グンポ』は、グゲ王の遺言により、王自身の身代金と引き換えにアティーシャを招いたと伝える。アティーシャは60代と高齢で、大学での研究も続けたかったので、初めは断った。しかしその日の夕方、ターラー菩薩からチベットへ行くべきだとの啓示を受け、弟子とともに赴く決意をしたという。

チベットに着いたのは1042年とされるが、1039年ごろとする説もある。彼は、チベット人が信心深いのに仏法の理解には乏しいと感じた。グゲ王国の首都があったガリーで王から密教の普及を求められて感銘を受け、この地に3年間とどまって著述などで布教につとめた。この時期に、のちに一派を開くことになる人物が弟子入りしている。1046年には弟子ドムトンの求めで中央チベットに活動の場を移した。ラサの南約20キロのニェタンで梵語とチベット語の文献を見つけ、サムイェー寺の図書館でも梵語の仏教原典を見つけて、吐蕃の仏教活動を賞賛した。約5年間、中央チベット各地を回った。

1054年、ラサ近郊で亡くなり、ニェタンの住居の近くに祀られた(没年を1052年とする記述もある)。ドムトンはカダム派の創始者とされ、この派はゲルク派にもつながる。禁欲と菩提心を重んじる精神は、ニンマ派、カギュ派、サキャ派にも取り入れられた。翻訳・編集した著作は200を超え、医療や科学の著作もある。『菩提道灯論』は仏教を菩薩の実践の観点からまとめた大作で、のちのカダム派に大きな影響を与えた。1978年6月28日、遺灰はバングラデシュのダッカに移され、ダルマラージカ仏教寺院に祀られている。

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