伝記
イェス・モンケは、チンギス・カンの次男チャガタイの子で、チャガタイ・ウルスの第3代当主である。チャガタイの五男ともいい、母はイェスルン・ハトゥンとされる。若いころから、オゴデイの子グユクと親しい間柄だったといわれる。
チャガタイは生前、孫のカラ・フレグを自らのウルスの後継者に指名していた。1241年にチャガタイが没すると、カラ・フレグがウルスを継いだ。幼かった彼は母エビスクンの摂政のもとで治めたとされる。イェス・モンケは継承から外れたが、1246年にグユクがモンゴル帝国の皇帝に即位すると、この友人に支持され、カラ・フレグに代わってチャガタイ・ウルスの支配者に任じられた。在位は1246年から1251年、または1252年までとされ、1247年に甥を退けて当主となったともいう。
在位中のイェス・モンケは飲酒に耽り、政務は妃と宰相のバハーアッディーン・マルギーナーニーに任せきりだったという。妃はナイシ(トカシとも)といい、二人に子はなかった。マルギーナーニーは歴史家ジュヴァイニーによって、文化の庇護者として知られる人物とされる。イェス・モンケはチャガタイ家の当主として初めてイスラムを後押しした人物ともいわれ、居所はアルマリクにあったとされる。
グユクの死後、新しいカアンを決めるクリルタイで、トルイの子モンケが選ばれた。イェス・モンケはグユクの属するオゴデイ家の側に立ち、モンケの即位式への出席を拒んだ。1251年にカアンとなったモンケは、カラ・フレグをウルスの支配者に戻し、イェス・モンケの処刑を命じた。ところがカラ・フレグは命令を果たす前に没し、その妃オルガナがイェス・モンケを処刑したと伝えられる。同じ時にマルギーナーニーも、チャガタイの時代の宰相ハバシュ・アーミドによって処刑された。最期には異説があり、甥のブリとともにバトゥの陣営へ送られて殺されたともいい、また、逃れて向かった先でバトゥの勢力に殺されたともいう。カラ・フレグの死後、ウルスはムバーラク・シャーが継いだとされる。没年は1252年である。
同じ年に亡くなった人物
- ザベル (キリキア・アルメニア王国女王) (1252年没)
- アーベル (デンマーク王) (1252年没)
- スヴャトスラフ3世 (1252年没)
- オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1252年没)
- カラ・フレグ (1252年没)
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