伝記
ザベルは、イザベルとも呼ばれる、キリキア・アルメニア王国の女王である。1219年から1252年まで在位した。アルメニアにおける悲劇の女性として知られる。生年は1211年とも1215年、1216年ともいわれ、ルーベン家に生まれた。父は王レヴォン2世、レヴォン1世とも数えられる人物で、母は2番目の妻であるキプロスのシビラで、ザベルはこの二人の間のただ一人の子であった。一時はアンドリューと婚約したが、成立しなかった。
父が1219年に急死すると、わずか7歳ほどだったザベルが女王として即位した。ルーベン3世の孫レーモン・ルーベンがこれに対して王位を主張したが、敗れて捕らえられ、処刑された。幼い女王の摂政となったのは、バグラスのアダムであったが、彼は暗殺され、代わってバルバロンのコンスタンティンが後見人となった。コンスタンティンは専横を極め、アンティオキア公ボエモン4世との同盟を求めて、その息子フィリップをザベルの夫に選んだ。フィリップは、王冠をアンティオキアへ送ったなどしてアルメニア人の反感を買い、シスで投獄されて、そこで毒殺されたともいわれる。1221年に結婚していたフィリップとの間に、子はなかった。
コンスタンティンは、自分の息子ヘトゥムとの結婚をザベルに迫った。ザベルは従わず、コンスタンティンのもとから逃れてセレウキアで修道女となった。しかしコンスタンティンはセレウキアでザベルを捕らえ、連れ戻して還俗させ、牢獄に監禁してヘトゥムとの結婚を強いた。ザベルはなお拒んだが、ヘトゥムにたびたび辱められて身ごもり、ついに1226年に結婚を受け入れた。式は5月14日で、ひと月後にヘトゥムは王として即位し、ザベルを形式上の共同統治者とした。こうして、ヘトゥム朝が成立した。ルーベン家とヘトゥム家というアルメニアの二大名家がこの結婚で結びつき、1世紀にわたる領土と王朝をめぐる争いが終わって、ヘトゥム家が国政の前面に出ることになった。
この再婚は当初ローマ教皇に認められなかったが、1237年に承認された。ザベルが夫とともに、戦略上の要地であるハロニエの城と町をドイツ騎士団に譲る証書に署名したことが知られ、実際にある程度の王権を分かち持っていたことがうかがえる。ヘトゥムとの間には7人の子が生まれた。娘のユーフェミアはシドン領主ジュリアンの、マリアはギー・ディブランの、シビリアはアンティオキア公ボエモン6世の、リタはセルヴァンティカルの領主コンスタンティンの妻となり、1236年か1237年に生まれた長男レヴォン3世はのちにアルメニア王となった。1244年に生まれた次男ソロスは、1266年に没した。ザベルは在位33年を経て1252年1月23日に亡くなり、トラザルク修道院に葬られた。夫は彼女より長く生き、死ぬまで単独で国を治めた。
同じ年に亡くなった人物
- ボエモン5世 (アンティオキア公) (1252年)
- ヴェローナの聖ペトロ (1252年)
- カタリーナ (1252年没)
- アーベル (デンマーク王) (1252年没)
- スヴャトスラフ3世 (1252年没)
同じ地域に関係する人物
- オシン (1320年没)
- Mleh (1175年没)
- レヴォン3世 (1289年没)
- フィリッポス1世フィラデルフォス (紀元前80年代没)
- レヴォン4世 (1307年没)