伝記
フィリッポス1世フィラデルフォスは、セレウコス朝シリアの王である。硬貨にはフィラデルフォス(兄弟を愛する者)とエピファネス(栄光ある者)の称号を刻んだ。在位は紀元前95年(94年とも)から前83年とされるが、没年を前75年とする説もある。アンティオコス8世の子で、兄弟に長兄セレウコス6世、双子とみられるアンティオコス11世、弟のデメトリオス3世とアンティオコス12世がいた。名のフィリッポスは「馬を愛する者」を意味する。この名はもともとアンティゴノス朝が王名として用いたもので、セレウコス朝がストラトニケ妃を通じてその子孫にあたることから、後継者であることを示す意図があったと考えられている。
父アンティオコス8世は紀元前124年にプトレマイオス朝の王女トリュファイナと結婚し、五人の息子をもうけた。トリュファイナは紀元前109年に叔父アンティオコス9世との戦争で命を落とした。紀元前96年に父が暗殺されると、アンティオコス9世がアンティオキアを奪った。兄のセレウコス6世は紀元前95年にアンティオコス9世を殺してアンティオキアを取ったが、アンティオコス9世の子アンティオコス10世に敗れ、モプスエスティアで反乱者に殺された。これが紀元前94年のことである。
兄の死の直後、フィリッポス1世はアンティオコス11世とともに王を称し、二人の肖像を刻んだ硬貨を発行した。肖像では11世が前に描かれており、11世が上位の王であったことがうかがえる。兄弟は父譲りの鷲鼻を誇張して描かれ、父の正統性を受け継ぐことを示した。フィリッポスはキリキアを拠点とし、貨幣の鋳造地からタルソスが本拠だった可能性が高い。兄弟は兄の仇を討つ意図を持ち、モプスエスティアを略奪して破壊したと、4世紀の著述家エウセビオスは伝える。紀元前93年初めには、アンティオコス11世がアンティオキアに進んでアンティオコス10世を追い出したが、フィリッポスは都に住まず、首都を兄に任せた。同年秋、態勢を立て直したアンティオコス10世が11世を破り、11世はオロンテス川で溺死した。
その後、フィリッポス1世は、ダマスカスを拠点とする弟のデメトリオス3世と手を結んだ。また、伯父であるプトレマイオス9世の助力を受け、アンティオコス10世と戦い続けた。アンティオコス10世がパルティアとの戦いで敗死すると、デメトリオス3世が勢力拡大を警戒して攻撃し、アンティオキアを奪った。デメトリオス3世の軍がベロエア(アレッポ)でフィリッポスを包囲したが、パルティアの援軍を得たフィリッポスは反攻に転じ、アンティオキアを奪還した。その間にダマスカスは末弟のアンティオコス12世に攻略され、デメトリオス3世はフィリッポス1世とアンティオコス12世に降伏した。
紀元前83年、アルメニアのティグラネス2世が侵攻し、シリアの大半が征服された。フィリッポスは本来の領地キリキアに逃れ、そこで死去したとされるが、いつどのように亡くなったのかを伝える情報はないともいわれる。アンティオキアの人々は、幼い息子フィリッポス2世を後継者として受け入れず、ティグラネスを招いたらしい。ただし、この侵攻は紀元前74年だった可能性もある。フィリッポス1世は貨幣改革を始め、その硬貨は紀元前64年のローマによるシリア征服後も流通し続けた。ローマ当局は、その肖像を象った硬貨を紀元前13年まで発行し続けた。
同じ年に亡くなった人物
- ミトラダテス2世 (紀元前80年代没)
- ゴタルゼス1世 (紀元前 80年(推定))
- ガイウス・ノルバヌス (紀元前80年代没)
- オボダス1世 (紀元前80)
同じ地域に関係する人物
- ザベル (キリキア・アルメニア王国女王) (1252年没)
- クィントゥス・ラビエヌス (紀元前39年没)
- モプスエスティアのテオドロス (428年没)
- Ruben III, Prince of Armenia (1187年没)
- ヘトゥム2世 (1307年没)