伝記
道元は、正治二年(一二〇〇年)に生まれ、建長五年八月二十八日(一二五三年九月二十九日)に没した、鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の宗祖である。晩年には希玄の異称も用い、宗門では高祖承陽大師と尊称される。主著『正法眼蔵』は、和辻哲郎から近年のスティーブ・ジョブズに至るまで、多くの人に影響を与えたとされる。
京都の公卿の久我家(村上源氏)に生まれた。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟は、父を内大臣の源通親、母を松殿基房の娘の藤原伊子とする説を唱えた。ただし、その根拠とされた『建撕記』の記載の信用性には疑義もあり、通親の子の堀川通具を実父とする説もある。伝記『建撕記』によれば、三歳で父を、八歳で母を失い、異母兄の堀川通具の養子となった。四歳で漢詩『百詠』を、七歳で『春秋左氏伝』を、九歳で『阿毘達磨倶舎論』を読んだ神童だったといわれる。両親の死後、母方の叔父の松殿師家から養嗣子にとの話があったが、世の無常を感じて出家を志し、断ったという説もある。
建暦二年(一二一二年)、比叡山にいる母方の叔父の良顕を訪ね、翌年、天台座主の公円について出家して、仏法房道元と名乗った。建保三年(一二一五年)には園城寺の公胤のもとで天台教学を修め、建保五年に建仁寺で栄西の弟子の明全に師事した。貞応二年(一二二三年)、明全とともに博多から南宋へ渡り、諸山を巡った。宝慶元年(一二二五年)、天童如浄が坐禅中に居眠りする僧を、参禅は身心脱落であるべきだと一喝するのを聞いて大悟し、只管打坐の禅を受け継いだ。このときの問答の記録が『宝慶記』である。安貞元年(一二二七年)に帰国し、同年に『普勧坐禅儀』を著した。
天福元年(一二三三年)、京都深草に興聖寺を開き、『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を、太宰府の俗弟子の楊光秀のために書いた。翌年には孤雲懐奘が入門したが、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激し、この頃から圧迫を受けた。寛元元年(一二四三年)、越前の地頭波多野義重の招きで越前の志比荘に移り、翌年に大仏寺を開いた。寛元四年(一二四六年)、これを永平寺と改め、自らの号も希玄と改めた。宝治元年から三年(一二四七〜一二四九年)頃には、執権北条時頼らの招きで教化のため鎌倉に下ったが、期間は半年ほどだった。
その思想の中核は、ひたすら坐禅するところに悟りが現れるとする立場で、修証一等や本証妙修と呼ばれる。釈迦にならってひたすら坐禅に打ち込むことを最高の修行とし、浄土教には否定的で、その教義は釈迦本来の教えから逸脱していると批判した。成仏したとしても、さらに求めて修行を続けることが成仏の本質だとした。晩年の十二巻本『正法眼蔵』では、因果の重視や出家主義の強調が見られる。『法華経』を特に重視し、『正法眼蔵随聞記』に最も多く引かれる経典も『法華経』である。建長五年、不治の病となって住職を弟子の懐奘に譲り、永平寺を出て在家の弟子の住まいに移り、居所を妙法蓮華経庵と名付け、没した。享年は五十四で、死因は瘍とされる。嘉永七年(一八五四年)に孝明天皇から仏性伝東国師の国師号を、明治十二年(一八七九年)に明治天皇から承陽大師の大師号を宣下された。
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