HISTORICAL PERSON · 1253年没

テオバルド1世 (ナバラ王)

シャンパーニュ伯・ナバラ王。詩人王とも呼ばれ、フランス王家との対立と和解を繰り返しながらシャンパーニュの内政改革を進めた。

生涯
1253年没
死亡地
スペイン王国(ナバラ州 / パンプローナ)
出生地
フランス共和国(トロワ)
出典
世界地図
スペイン王国(ナバラ州)

伝記

テオバルド1世は1201年5月30日、シャンパーニュ伯ティボー3世とナバラ王女ブランシュの子として生まれた。父が生まれる前に没したため、誕生と同時に伯位を継いで遺腹伯と呼ばれ、シャンパーニュ伯としてはティボー4世を名のる。21歳になるまでは母ブランシュが統治し、フランス王フィリップ2世が後見人となって、彼はフランス宮廷で育てられた。1216年から1222年に成人するまでは、従姉の一人とその夫との家督争いに悩まされたが、王と教皇ホノリウス3世が母子の側に立ち、1221年に相手は権利を放棄した。この間の1220年にゲルトルートと結婚し、2年後に離婚した。1223年にはアニェス・ド・ボジューと再婚した。

1224年にはフランス王ルイ8世に従ってラ・ロシェルの包囲に加わったが、のちに王と対立し、1226年にアルビジョア十字軍の最中、アヴィニョンから勝手に陣払いした。直後にルイ8世が急死すると、王妃ブランシュ・ド・カスティーユに横恋慕した彼が毒殺したと噂され、ルイ9世の戴冠式への出席は許されなかった。1227年1月にはブルターニュのピエール1世、ラ・マルシュ伯ユーグ10世と組んで反乱を起こしたが、摂政となった王母に説得され、3月に離脱した。この離脱で貴族の反感を買い、1229年から戦闘が始まり、1230年にはピエール1世とユーグ10世の軍がトロワを包囲した。城壁が両軍を阻んでいる間に王太后の援軍が着き、危機を脱した。

1231年にアニェスが没し、翌1232年にはマルグリット・ド・ブルボンと三度目の結婚をした。1234年、母方の叔父ナバラ王サンチョ7世が没して王家が断絶し、母がその妹だったことから、彼がナバラ王を継いだ。同じ年、継承権を放棄させるため、もう一人の従姉であるキプロス王妃に領土と現金4万リーブルを提供する必要があり、ブロワ、シャルトル、サンセール、シャトーダンをルイ9世に売った。ブロワは家の発祥の地で、手放すのを嫌がったが、王母に説得された。1236年には娘ブランシュをピエール1世の息子ジャン1世と結婚させて和解した。シャンパーニュではバイイを置いて伯領を6つの管区に分け、トロワに上訴の裁判所を設けるなど、地方行政と裁判を改めた。

1239年の夏、彼はフランス諸侯とともにパレスチナに上陸した。ほとんど戦わず、アッコの宮廷で詩を詠み、アスカロンで築城をした。アイユーブ朝のカイロとダマスカス双方から同盟を持ちかけられ、交渉でエルサレム王国の領土を広げたが、1240年末にコーンウォール伯リチャードが来る前にパレスチナを去った。1245年には領地収入をめぐってパンプローナ司教と争い、破門されたが、1247年にローマへ赴いて許しを請い、解除された。金策のため、トロワの市場の収入を両替商に5年間前貸しした。1253年7月8日、パンプローナの王宮で52歳で没した。長男テオバルド2世が幼かったため、1256年まで妃マルグリットが摂政を務めた。

彼はトルバドゥールとしても知られ、作詩は500以上、作曲は400以上とされ、約60篇の詩が今に伝わる。恋愛の詩が多く、王太后ブランシュへの思慕を詠んだとされ、1239年の遠征の前には十字軍の歌も作った。祖母マリー・ド・フランスが南フランス伝来の愛の文化を広めており、彼はその気風の漂うトロワの宮廷で育った。政治家としては王家と貴族の間を右往左往したため、「無節操で無能、移り気」と厳しく非難された。

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