HISTORICAL PERSON · 1254年没

インノケンティウス4世 (ローマ教皇)

第180代ローマ教皇。1245年に第1リヨン公会議を開き、修道士プラノ・カルピニをタタールの偵察に派遣した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門し、ポルトガル王サンシュ2世を廃位に追い込んだ。

生涯
1254年没
死亡地
イタリア共和国(ナポリ)
出生地
イタリア共和国(リグーリア州 / ジェノヴァ)
出典
世界地図
イタリア共和国(リグーリア州)

伝記

インノケンティウス4世は、第180代ローマ教皇(在位1243年〜1254年)である。本名はシニバルド・フィエスキといい、1195年ごろに生まれ、1254年12月7日に没した。後にハドリアヌス5世となる人物は甥に当たる。ジェノヴァの生まれとされ(マナローラとする説もある)、ラヴァーニャ伯ウーゴ・フィエスキとベアトリーチェ・グリッロの子であった。フィエスキ家はリグーリアの貴族で商人の家系である。パルマ大学とボローニャ大学で学び、ボローニャで教会法を教えた可能性もあるが、その裏づけとなる文書はない。1216年から1227年まではパルマ大聖堂の参事会員を務めた。教会法学者として当代屈指と評され、教皇の教令を注解した書物を著した。

この評判により、教皇ホノリウス3世に招かれて教皇庁に入り、まもなく昇進を重ねた。1226年から翌年にかけて審理官を務め、1227年には副尚書となり、同年9月、教皇グレゴリウス9世によって枢機卿に任じられた。1235年から1240年ごろまでは、アンコーナ辺境領の教皇領統治官を務めた。教皇グレゴリウス9世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に奪われた教皇領の返還を求めて争っていた。グレゴリウス9世の没後、直前の教皇ケレスティヌス4世は在位わずか15日で死去し、その後、枢機卿たちは皇帝への対応をめぐって分裂した。約1年半に及ぶ議論と圧力の末に、1243年6月25日、ひどく気の進まない様子のシニバルドが全会一致で選ばれ、インノケンティウス4世を名乗った。彼は枢機卿の時代には、破門後の皇帝とも親しく、皇帝はその知恵を高く評価していたという。皇帝は当選を聞いて、枢機卿の友情を失い、教皇の敵意を得た、と機知を弄したが、新教皇への手紙は敬意に満ちたものであった。交渉は始まったものの、ロンバルディアの返還などをめぐって両者は譲らず、決裂した。

皇帝の策謀のためにローマは危険になり、1244年6月7日、教皇は変装して密かにローマを脱出した。ジェノヴァを経てフランスへ逃れ、11月末にリヨンに着いた。ここで1245年に、140人ほどの司教を集めて第1リヨン公会議を開催した。皇帝フリードリヒ2世を破門し、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペやホラント伯ウィレム2世を対立王に選ばせた。ポルトガル王サンシュ2世を廃位に追い込み、弟のアフォンソ3世に王位を譲らせたことでも知られる。同じ1245年には、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方から来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止の工作のために派遣した。1246年には、ジョチ・ウルスと戦っていたハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロにルーシ王の位を授けて牽制した。同年にグユクが第3代ハーンになると、カルピニは教皇の親書を渡して和睦交渉を行い、教皇宛にグユクの勅書が送られたが、そこには教皇への帰順の要求が記されていた。帰国後のカルピニは、一時、教皇の怒りを買ったという。

東欧では、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国になったため、第二次ブルガリア帝国を新たな防衛の拠点とするべく、カリマン1世にブルガリアとの教会合同を申し出た。1250年に皇帝が没するとローマへ戻った。1252年5月15日には、異端者への拷問を認める勅書「アド・エクスティルパンダ」を発した。

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