伝記
トール・ヘイエルダールは、1914年10月6日、ノルウェーのラルヴィクに生まれた人類学者・海洋生物学者・探検家である。父は同名の醸造家、母アリソンは進化論に強い関心を持つ人で、その影響で幼いころから動物学に興味を示し、家に小さな博物館を作ったほどだった。オスロ大学で動物学と地理学を学ぶ一方、ポリネシアの文化と歴史を独学で研究し、裕福なワイン商人が所有する、当時世界最大のポリネシア関係の蔵書を調べた。1936年にマルケサス諸島へ渡る直前、最初の妻リーヴと結婚し、2人の息子をもうけた。1937年には妻とポリネシアのファツ・ヒバ島で現地の人々と同じ暮らしをして、この体験を著書にまとめ、このとき、ポリネシア人は南アメリカから来たのではないかと考えるようになった。
1947年当時、ポリネシアの住民の起源は謎とされていた。ヘイエルダールは、南米ペルーの石像とポリネシアの石像が似ていること、植物の呼び名が似ていることなどから、起源は南米にあるという説を論文で発表したが、当時の技術では船で行き来できるはずがないとして、学界の強い反対にあった。これを実証するため、バルサ材などの南米の材料で、インカ帝国時代の船をまねた筏コン・ティキ号を建造した。名前は、インカ帝国の太陽神ビラコチャの別名による。1947年4月28日、5人の仲間と1羽のオウムとともに出航し、曳航船にフンボルト海流を越えるところまで引かれたのちは、漂流して進んだ。8月7日、トゥアモトゥ諸島のラロイア環礁で座礁し、一行はポリネシアにたどり着いた。1948年に航海をまとめた『コン・ティキ号探検記』は62の言語に訳されて2000万部を超え、航海を描いた長編記録映画は、1951年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受けた。1949年にはイヴォンヌ・デデカム=シモンセンと再婚して3人の娘をもうけたが、1969年に離婚した。1955年から1956年にはイースター島の巨大石像を調査し、『アク・アク』にまとめた。
その後も葦船による実験を重ねた。1969年には、アステカ文明がエジプトと似ているのは、エジプトからの移民が築いたからではないかと考え、パピルスの葦船ラー号で、7人の乗組員とモロッコからカリブ海をめざしたが、航海の途中で浸水して設計の誤りがわかり、6000キロ以上を進んだところで船は壊れ、乗組員は救出された。翌1970年には、ボリビアのチチカカ湖から招いた船大工の手でラー2号を造り、モロッコを出てバルバドスに到達し、カナリア海流に乗れば大西洋は渡れることを示した。この航海では、人種や国籍、宗教の異なる乗組員を選んで平和に協力できることを示そうとし、海洋汚染の試料を採って国連に報告を出した。1977年には、インダス文明とメソポタミアが海で結ばれていた可能性を試すため、葦船ティグリス号を造ってペルシア湾からインド洋、紅海へ向かったが、1978年4月3日、周辺の戦争への抗議としてジブチの沖で船を焼いた。
彼の学説は、現在のほとんどの研究者によって否定されている。考古学や言語学、遺伝子の分析から、ポリネシア人は台湾から東南アジアの島々を経て、西から東へ広がったと考えられているのである。それでも、自説を実証するために行動した業績は高く評価され、ポリネシア人の東南アジア起源説をとる学者からも敬意を寄せられている。1991年に3度目の結婚をした。2002年4月18日、イタリアのリグーリア州で亡くなり、ノルウェー政府は4月26日にオスロ大聖堂で国葬を営んだ。
同じ年に亡くなった人物
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- Mikayil Abdullayev (2002年没)
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