伝記
ウィレム2世は、ホラント伯であり、神聖ローマ帝国の大空位時代にはローマ王でもあった人物である。ドイツ名はヴィルヘルム・フォン・ホラントといい、1227年に生まれた。父はホラント伯フロリス4世、母はブラバント公アンリ1世の娘マティルドである。7歳になる前の1234年7月19日、父はコルビーで開かれた馬上槍試合で事故のために亡くなった。クレルモン伯フィリップ・ユルプルに殺されたとする説もある。ウィレムはホラント伯の位を継ぎ、叔父のウィレムとオットーが1234年から1239年まで摂政をつとめた。
1247年、皇帝フリードリヒ2世の対立王であったテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが亡くなると、教皇インノケンティウス4世と諸侯によって新たな対立王に選ばれた。選ばれたのは10月3日で、まだ20歳ほどであった。叔父のブラバント公アンリ2世やケルン大司教が支持した。ただしホーエンシュタウフェン家に属する有力な諸侯はこの選出に異議を唱えた。年若いため、ブラバント公とユトレヒト司教が助言者とされた。5か月に及ぶ包囲の末にアーヘンを皇帝派から奪い、騎士に叙せられたのち、1248年11月1日に戴冠した。王位に就いたことでかえって敵となる諸侯が生まれたため、より自由に動けるよう、弟のフロリスにホラント伯領の統治を任せた。
その後はニーダーラインでの地位を固めた。1250年にフリードリヒ2世が没し、1251年の復活祭の際にはリヨンに滞在していた教皇を訪ねた。1252年1月25日にはブラウンシュヴァイク・リューネブルク公オットー1世の娘エリーザベトと結婚した。婚礼の夜には、宿泊した館が燃やされるという災難にあったが、花嫁が自分の知る道を通って夫の手を引き、救ったと伝えられる。これらの出来事を契機に、ゴスラー、リューベック、ブレーメン、さらにフランクフルトなど多数の都市と強く結びついて、いわゆるライン同盟の指導者となった。この政策は聖界の諸侯、中でもケルン大司教との決裂を招いた。
帰国した直後、ウィレムはフランドル女伯マルグリットと対立した。マルグリットは彼の王位を認めず、ウィレムは女伯の領地を奪おうとし、女伯もホラント伯としての臣従を求めた。ゼーラントはフランドルの封土だったからである。1253年7月、マルグリットの息子ギー・ド・ダンピエールの率いるフランドル軍は、弟フロリスの待ち伏せにあって敗れ、マルグリットの息子たちは捕虜となった。マルグリットはフランス王の弟アンジュー伯シャルルを味方に呼んでエノー伯領を与えようとしたが、その息子ジャン・ダヴェーヌが義弟のウィレムの助けを得てフランス軍を破り、母にエノー伯と認めさせた。マルグリットはウィレムと和睦し、ギーは返された。
1254年にコンラート4世が亡くなり、単独のローマ王となった。この年の公式文書に、神聖ローマ帝国という国号を初めて正式に用いた君主でもある。教皇に招かれて出発した旅の途中、ユトレヒト司教との争いや北のフリースラント人の蜂起のため、1255年の初めにホラントへ戻った。1255年から翌年にかけての冬、フリースラント人を従えようと自ら軍の先頭に立ち、1256年1月28日、フリースラントへの遠征中に戦死した。ウィレムの死により、神聖ローマ帝国は君主不在の混乱に陥った。ホラントは、2歳に満たない子フロリス5世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 藤原頼経 (1256年没)
- マファルダ・デ・ポルトゥガル (1256年没)
- Renaud de Vichiers (1256年)
- ベルンハルト (ケルンテン公) (1256年没)
- ペドロ・ノラスコ (1256年)
同じ地域に関係する人物
- ヘンドリック・ローレンツ (1928年没)
- Jetty Paerl (2013年没)
- フレデリック・コイエット (1687年没)
- ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル (1925年没)
- フロリス5世 (ホラント伯) (1296年没)