伝記
ベルンハルト・フォン・シュポンハイムは、1202年から亡くなるまで54年にわたってケルンテン公を務めた人物である。1176年または1181年に生まれた。シュポンハイム家の出身で、父ヘルマンは1161年から1181年までケルンテン公を務め、母はバーベンベルク家出身のアグネス・フォン・エスターライヒである。
父の後は兄ウルリヒ2世が約20年間ケルンテン公であった。ウルリヒ2世は1197年の十字軍に参加したあと、おそらくハンセン病とみられる重い病にかかり、ベルンハルトがそのころから摂政として公領を実質的に治めていた。1202年8月10日、兄ウルリヒ2世が子なく亡くなり、ベルンハルトがケルンテン公となった。皇帝ハインリヒ6世の死後、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家がローマ王位を争うと、ベルンハルトは、はじめ兄とともにホーエンシュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンを支持していた。1208年にフィリップが暗殺されるとヴェルフ家のオットー4世支持にかわり、ローマで行われたオットーの戴冠式にも出席した。のちにフィリップの甥フリードリヒ2世の支持にまわり、1212年にフリードリヒ2世はローマ王に選ばれて、オットー4世に勝った。
1205年には、ザンクト・ファイトに貨幣鋳造所を設けた。1213年には、ボヘミア王オタカル1世とハンガリー王女コンスタンツィエの娘ユーディトと結婚し、4人の子をもうけた。ウルリヒ3世、ベルンハルト、マルガレーテ、フィリップである。ザルツブルク大司教は1218年にザッカウ、1225年にラヴァントに補佐司教座を置いて立場を強めたが、ベルンハルトはゲルツ伯マインハルト3世と、小さなグライフェンブルクの所領をめぐって争っていた。ベルンハルトは騎士道とミンネザングの保護者でもあり、ザンクト・ファイトの宮廷では騎士の馬上試合が催され、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデのようなミンネゼンガーが集まった。ウルリヒ・フォン・リヒテンシュタインは、詩『女性への奉仕』のなかで、1227年にヴィーナスの装いでケルンテンに到着し、ベルンハルトがスロヴェニア語の挨拶で迎えた様子を描いている。1230年に、皇帝フリードリヒ2世と教皇グレゴリウス9世の和解を図ったヘルマン・フォン・ザルツァの尽力を支え、サン・ジェルマーノ教会で和平が結ばれた。1234年ごろには、低クラインのコンスタニェヴィツァにシトー会修道院を創建した。
のちには、皇帝とその息子ハインリヒ7世の不和の仲介もつとめ、1237年にはハインリヒ7世の弟コンラート4世の国王選出を支えた。しかし晩年に、ボヘミアのプシェミスル家やアンデクス家と姻戚関係を結ぶと、フリードリヒ2世派から教皇派に移った。1246年には、公領の首都となるクラーゲンフルトを現在の場所に移した。同じ年にオーストリアのバーベンベルク家が断絶すると、影響力を広げようとしたが失敗した。それでも、カラヴァンケン山脈を越えてクライン辺境伯領に通じるゼーベルク峠とローイブ峠の支配権は握った。1247年には息子フィリップをザルツブルク大司教に選ばせることに成功した。1248年には、息子ウルリヒ3世が、メラーン公オットー1世の娘アグネスとの結婚によってクライン辺境伯領を手に入れた。
ベルンハルトは1256年1月4日に亡くなり、ラヴァントタールのザンクト・パウル修道院に葬られた。ウルリヒ3世は1269年に子なく没し、弟フィリップは権利を主張したが、従兄弟のボヘミア王オタカル2世に敗れた。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・ブルボン (ナバラ王妃) (1256年没)
- ペドロ・ノラスコ (1256年)
- マファルダ・デ・ポルトゥガル (1256年没)
- バトゥ (1256年没)
- マリー・ド・ブラバン (1226-1256) (1256年没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789) (1789年没)
- Karl Robatsch (2000年没)
- ヴィルヘルム・バックハウス (1969年没)
- ミリヴォイ・アシュネル (2011年没)
- Christine Lavant (1973年没)