伝記
イッズッディーン・アイバクは、アイユーブ朝に仕えたマムルーク(奴隷軍人)の将軍で、バフリー・マムルーク朝の第2代スルタンである。テュルク系の出身で、アイバクという名はテュルク語で「月の主」を意味する。アイユーブ朝のスルタン、サーリフに仕え、毒見役からアミール(将軍)に出世した。
1250年、サーリフの後を継いだトゥーラーン・シャーが、サーリフ直属のマムルーク軍団バフリーヤに殺され、サーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルがスルタンに即位した。アイバクはそのとき、アミールの筆頭だった。だが、アレッポに残るアイユーブ朝の君主やダマスカスのクルド人アミールたちが反旗を翻し、アッバース朝のカリフ、ムスタアスィムも女性の即位を非難したため、シャジャル・アッ=ドゥッルは同じ年に、最有力のアミールだったアイバクと結婚して、スルタンの位を譲った。アイバクは即位名をアル=マリク・アル=ムイッズといい、男性としてはマムルーク朝で最初のスルタンとなった。バフリーヤは5日後に、まだ6歳の少年をアシュラフ・ムーサーとして立てさせたが、アイバクはその後見役として、軍の長の座を保った。アイバクはサーリフを壮麗な廟に葬り、アイユーブ朝の権威を借りて新しい政権を正当化しようとした。シャジャル・アッ=ドゥッルは結婚にあたって、高齢で妻子もいたアイバクに離婚させ、自分の管理するサーリフの遺産を渡さずに権力を握り続けた。
1250年から51年の冬には、ダマスカスのアイユーブ朝のスルタン、ナースィル・ユースフが攻め込んだ。1251年2月、アッバーサで両軍が戦い、シリア軍は優勢に見えたが、一部のマムルークやクルド人が寝返って、ナースィルは戦場から逃げた。ナースィルはその後もシリアにとどまった。上エジプトでは、ベドウィンがマムルークの支配を認めず、1253年まで長く反乱を続けた。この年、バフリーヤがこれを破り、アイバクは和平の話し合いに来た首領たちをだまし討ちにしたとされる。同じ1253年4月には、カリフの仲介でナースィルと和平を結び、パレスチナを北はガリラヤ、東はヨルダン川まで譲られて、エジプトの主として認められた。
二人の利害は対立し、アイバクはバフリーヤに対抗しようと自らのマムルーク軍団を育て始めた。1254年、バフリーヤの指導者アクタイが略奪や暴行を働いたのをきっかけに、アイバクは排除に踏み切り、子飼いの将軍クトゥズがアクタイを殺した。バイバルスら残ったバフリーヤはシリアへ逃れた。1255年にはエルサレム王国と10年の休戦を結び、モンゴルとの戦いに集中しようとした。
1257年、アイバクはイラクのモースルのアミールと親しくなるため、その娘との縁組をしようとした。これが命取りになった。孤立していたシャジャル・アッ=ドゥッルは、自分の地位が脅かされると悟って先手を打ち、アイバクを宮廷で殺させた。4月10日のことである。陰謀はすぐにばれ、彼女もアイバクのマムルークたちに殺された。跡は先妻との間の子アリー(マンスール・アリー)が継いだが、若く力がなく、モンゴル軍がシリアに迫る国難のさなかに、クトゥズに廃された。アイバクの王統は2代で絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・ジュネーヴ (1257年没)
- 聖ヒヤキントゥス (1257年)
- ルクヌッディーン・フルシャー (1257年)
- ホーコン若王 (1257年没)
- ウラクチ (1257年没)
同じ地域に関係する人物
- サイード・パシャ (1863年没)
- イブン・タグリービルディー (1470年没)
- ザーヒル (1036年没)
- ルシュディ・アバザ (1980年没)
- アル=アズィーズ・ウスマーン (1198年没)