伝記
マルグリット・ド・ジュネーヴは、サヴォイア伯トンマーゾ1世の妃となった女性である。ジュネーヴ伯ギヨーム1世の娘とされ、生まれた年ははっきりせず、1180年ごろとも伝えられる。母はフォーシニー家の出ともいわれる。名前も一定せず、マルグリットのほかにベアトリスやベアトリクスの名でも呼ばれた。一部の歴史家はベアトリクス・ド・ジュネーヴとマルグリット・ド・フォーシニーを別人とみなし、二度の結婚があったと考えた。しかし、この混乱は、オートコンブ修道院の年代記の筆者が書き写しを誤ったことによるとする研究者もおり、同一人物とみる見方もある。
彼女は、フランス王フィリップ2世の3番目の妃となる予定であったという。1195年、父ギヨーム1世に伴われてフランスへ向かう途中で、サヴォイア伯トンマーゾ1世に連れ去られた。トンマーゾはその美しさに惹かれ、フィリップ2世はすでに結婚していると主張した。実際、フィリップ2世は1193年にインゲボルグ・ア・ダンマークと結婚し、まもなく離婚していた。サヴォイア伯に仕えた歴史家の年代記では、トンマーゾは彼女に会って心を奪われ、彼女に励まされて結婚を約束したが、ジュネーヴ家とサヴォイア家が張り合っていたために父が反対し、伯が誘拐に及んだという。こうしてマルグリットは1196年ごろ、トンマーゾと結婚してサヴォイア伯妃となった。父ギヨーム1世は結婚後まもなく病死したと伝わる。プロヴァンスの吟遊詩人ランボー・ド・ヴァケラスの詩『カロス』には、サヴォイアの奥方がトロイの町の長官にたとえられて登場し、この伯妃がうたわれているともされる。
夫妻の子の数には説の違いがあり、17世紀の歴史家ギシュノンは14人を挙げ、さらに伯の庶子2人を加えた。主な著者たちは10人としているが、さらに多い数を挙げる説もある。長男アメデーオ4世は1197年に生まれ、のちにサヴォイア伯となった。娘のベアトリーチェは1219年にプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世と結婚し、その4人の娘はみな王妃となった。マルゲリータは1218年にキーブルク伯ハルトマン4世と結婚している。次男トンマーゾ2世はピエモンテを領して、最初の結婚でフランドル伯となった。ピエトロ2世は後にサヴォイア伯に、フィリッポ1世はリヨン大司教から結婚によってブルゴーニュ伯となって、のちにサヴォイア伯を継いだ。ボニファーチョはカンタベリー大司教となり、グリエルモはヴァランス司教に、アリーチェとアガタはリヨンのサン・ピエール女子修道院長になった。ウンベルトは1223年、ヘレナは1230年、エリザベッタは1233年に亡くなった。長男が父の称号と権利を継ぎ、弟たちは多く聖職に入った。
晩年の彼女は、1228年ごろにサント・カトリーヌ・デュ・モン修道院を創建したともいわれるが、創建の年を1179年とする説もあり、論争がある。名前が文書に見える最後は、息子による彼女への寄進である。没年は1257年、日付は4月8日とされるが、確かではなく議論がある。オートコンブ修道院の年代記は没年を1230年としたが、これは誤りだと指摘される。遺体はサヴォイア家の墓所であるオートコンブ修道院に葬られ、8人の子もそこに眠っている。
同じ年に亡くなった人物
- サルタク (1257年没)
- プシェミスウ1世 (1257年没)
- アラーウッディーン・カイクバード2世 (1257年)
- シャジャル・アッ=ドゥッル (1257年没)
- 聖ヒヤキントゥス (1257年)
同じ地域に関係する人物
- ギヨーム2世 (ヌヴェール伯) (1148年没)
- ウァレンティニアヌス2世 (392年没)
- カテブ・ヤシーン (1989年没)
- ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア (プロヴァンス伯妃) (1260年代没)
- ルイ・ヴィカー (1861年没)