伝記
ムスタアスィムは、1213年に生まれ、バグダードに拠ったアッバース朝の最後となる第37代のカリフである。父はカリフのムスタンスィルで、母はエチオピア出身の女奴隷ハジルであった。本名はアブー・アフマド・アブドゥッラーといい、「ムスタアスィム・ビッラー」はアラビア語で「アッラーにかけて固守する」を意味する称号である。1242年の末に父が世を去ると、母の出自は低かったものの、勇敢な性格で知られたムスタンスィルの弟ハファージーを疎んだ廷臣たちによって擁立され、カリフの位に就いた。
信仰心に篤く温厚で、書道も嗜んだ人物だったが、指導者に必要な体力、忍耐力、思考力には欠けていたという。国政は平民から取り立てた側近たちに任せきりで、自らは娯楽と読書に耽っていた。第7回十字軍のころ、エジプトで女性のシャジャル・アッドゥッルがスルタンに就くと、カリフはこれを承認しなかった。マムルークに宛てて、そちらに男がいないのならそう知らせよ、こちらから男を送ろうと書き送ったと伝えられる。アイユーブ朝の時代には、スルタンはカリフの承認を得て初めて正統性を持つのが慣例だったため、この拒絶はマムルークにとって大きな痛手となった。マムルークはアイバクを新たなスルタンに立て、彼は自分はカリフの代理にすぎないと表明した。やがてマムルークとアイユーブ朝のあいだに武力衝突が起こると、モンゴルの脅威を抱えるカリフは平和的な解決を望んで仲介に立ち、その結果マムルークはパレスチナ南部やシリア沿岸を得るとともに、支配の承認も手にした。1255年から1256年にかけては、モンゴルのフレグから、アラムート攻略の遠征のために兵を貸すことを強いられている。
フレグはモンケの定めた条件への服従を求めてきたが、カリフはこれを拒んだ。その背後には宰相イブン・アルアルカミーの影響があったとされ、宰相はモンゴル軍の脅威を実際より軽く伝え、都が危うくなればイスラーム世界が救援に駆けつけると請け合ったともいわれる。一方で、宰相の忠告にカリフが耳を貸さなかったとも伝えられる。返書はフレグにとって脅しめいた無礼なものと映り、交渉は打ち切られた。それでもカリフは各地から軍勢を呼び集めず、城壁の補強もせず、兵士への報酬すら惜しんだ。アンバール付近の戦いでアッバース朝軍は一度モンゴル軍に勝ったが、進軍を止めるには至らなかった。1258年1月11日までにモンゴル軍はティグリス川の両岸に布陣して都を挟み込み、カリフは騎兵2万を出撃させた。しかしモンゴル軍が堤を切って背後を水浸しにしたため、この騎兵は閉じ込められて大敗した。1月22日にバグダードは包囲され、2月10日に降伏した。
降伏したカリフは、フレグから無策と無能をののしられ、2月20日とも21日ともいわれる日に処刑された。その最期は二通りに伝わる。一つは、敷物で巻かれて軍馬に踏み殺されるという、モンゴルの伝統にかなった貴人の死である。もう一つは、一室に閉じ込められて飲食を断たれ、蓄えた金塊と宝石を差し出されて「それほど財宝を愛しているのなら、それを食べて生きるがいい」と言われたという話である。長男と次男も処刑され、幼い三男ムバーラク・シャーはフレグの妃オルジェイ・ハトゥンに預けられたのち、アゼルバイジャンのマラーガに送られて余生を過ごした。こうしてアッバース朝は最後の領土を失った。父方の叔父にあたる人物はマムルークのバイバルスのもとへ落ち延び、ムスタンスィル2世としてカリフに即位した。
同じ年に亡くなった人物
- テオドロス2世ラスカリス (1258年没)
- マインハルト1世 (1258年没)
- アブ・アル=ハサン・アル=シャディリー (1258年没)
- アブー・ヤフヤー・アブー・バクル (1258年)
- ゲオルギオス・ムザロン (1258年)
同じ地域に関係する人物
- ホスロー1世 (579年没)
- ハバシュ・ハースィブ (874年没)
- サルマーン・アル=ファーリスィー (656年没)
- シャフルバラーズ (630年没)
- ハーディー (アッバース朝カリフ) (786年没)