伝記
ミトリダテス1世カッリニコスは、紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて小アジアにあったコンマゲネ王国の第3代の王である。没年は紀元前70年で、生年は明らかでない。アルメニア系のオロンテス朝の出自で、コンマゲネ王サモス2世(テオセベス・ディカイオス)の息子として生まれ、王子として父の後継者となった。母は王妃イシアスとされるが、フランス語圏ではポントス出身と思われる王妃ピュトドリスの子だった可能性が示されている。
「ミトリダテス」という名はイラン系の名で、この王家ではそれまで用いられなかった。一方でポントス王国の君主たちには古くから非常に多い名であり、同時代のポントス王ミトリダテス6世もその一人である。このため、母方の縁でポントスの王家と結びついたことが命名の背景だったのではないかと考えられている。
王位に就く前、彼はセレウコス朝シリアの王女ラオディケ(ラオディケ7世テア)と結婚した。ラオディケはセレウコス朝の王アンティオコス8世グリュポスと、プトレマイオス朝の王女トリュパイナの娘である。この結婚は両国の和平の同盟の一環として、双方の父親が取り決めたものだった。この縁により、ミトリダテスは当時のセレウコス朝の王たちのうち五人の義兄弟にあたることになった。
即位は紀元前109年とも、紀元前100年ごろともされ、没する紀元前70年まで王位にあった。ミトリダテスはギリシア文化を受け入れ、この結婚はコンマゲネの強いヘレニズム化をもたらしたという。「カッリニコス」(偉大な勝利者)の添え名を名乗り、「フィルヘレン」(ギリシア人の友)、「フィロロマイオス」(ローマ人の友)の称号も用いた可能性がある。
ラオディケとのあいだには、のちに王となる息子アンティオコス1世(テオス)がおよそ紀元前86年ごろに生まれたとされる。ほかに二人の娘がいたらしく、一人は兄弟の妻となったイシアス・フィロストルゴスとされる。ミトリダテスは紀元前70年に死去し、アンティオコスが跡を継いだ。アンティオコスは亡き父のために廟所アルサメイアを建設した。この結婚によって、アンティオコスはセレウコス朝の血筋という、もう一つの由緒ある系譜を主張できるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- シナトルケス (紀元前70年没)
- オエノマウス (紀元前70)
- Ganicus (紀元前70)
- ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) (紀元前70年代没)
- マルクス・アントニウス・クレティクス (紀元前70年代没)
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