伝記
アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルクは、1885年2月9日、ウィーンで富裕な商家の子として生まれたオーストリアの作曲家である。幼いころから音楽や文学に関心を抱き、早熟な少年時代を送った。15歳のとき父が亡くなったころから、独学で作曲を試みるようになった。この時期に書いた多数の歌曲は現存するが、1980年まで封印されていた。10代後半の私生活は波乱に富み、1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中マリー・ショイヒルとの間に私生児の娘ができた。翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図ったという。
1904年、ベルクの兄が弟の作品をアルノルト・シェーンベルクのもとへ持ち込み、師事することになり、同門のアントン・ヴェーベルンとの交友も始まった。ギムナジウムを出て公務員になったが、作曲に打ち込むためわずか2年で辞職し、ウィーン国立音楽院に入学した。1907年に『4つの歌曲』作品2などで本格的な作曲家デビューを飾った。1908年7月23日、生涯の持病となる喘息を発病し、このとき23歳だったベルクは「23」という数字を自分の運命の数と決めた。この数は以後の作品の構成を彩ることになる。1911年には声楽を学んでいたヘレーネと結婚した。ヘレーネの母アンナは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われた。
1912年、初めて管弦楽を用いた『アルテンベルク歌曲集』作品4を完成させたが、師の反応は芳しくなかった。翌年の部分初演は「スキャンダルコンサート」と呼ばれる大騒動になり、完全な初演はベルクの死の17年後まで持ち越された。1914年、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ヴォイツェック』の上演に接して、これを基にした無調のオペラの作曲を始めた。この年に第一次世界大戦が勃発し、翌年から兵役に服して作曲が不可能になったが、1917年に休暇を与えられて歌劇『ヴォツェック』作品7の作曲を再開し、5年後に完成した。1924年9月13日のシェーンベルク50歳の誕生日に献呈しようとしたピアノ、ヴァイオリンと13管楽器のための室内協奏曲は間に合わず、1925年に完成した。
同じ1925年、歌劇『ヴォツェック』がベルリン国立歌劇場で、エーリヒ・クライバーの指揮により初演された。初演にあたっては、分奏を含めて総計150回もの練習が行われたという。激しい批判も受けたが、作品は国際的に上演され、作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。この年、プラハで知り合った人物との不倫関係が始まり、そこから『抒情組曲』が生まれた。1928年には、ヴェーデキントの戯曲『地霊』と『パンドラの箱』に基づく歌劇『ルル』に取りかかり、翌年に一時中断して演奏会用アリア『ワイン』を作曲した。
しかし1933年のナチス・ドイツ政権の発足により、順調だった作曲家人生は暗転した。ベルクはユダヤ人ではなかったが、師シェーンベルクと同様にその音楽も「退廃音楽」の烙印を押され、ドイツでの演奏が不可能になった。1935年、アルマ・マーラーと、その二番目の夫グロピウスの娘で、ベルクも可愛がっていた人の訃報に接し、『ルル』の筆を置いて、異例の速筆でヴァイオリン協奏曲『ある天使の思い出に』を書き上げた。元来病弱で、作曲中に体調が悪化し、8月には虫刺されが原因で膿瘍ができた。回復したものの再発を繰り返し、12月に敗血症を併発して、12月24日未明に50年の生涯を閉じた。未完の『ルル』は2幕までで初演され、3幕版は未亡人ヘレーネの死後、1979年にパリのオペラ座で初演された。
同じ年に亡くなった人物
- ポール・シニャック (1935年没)
- ヨセフ・スク (作曲家) (1935年没)
- リヒャルト・ヴェッツ (1935年没)
- ベルンハルト・シュミット (1935年没)
- ユリア・ベック (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- Leopold Hofmann (1976年没)
- セーチェーニ・イシュトヴァーン (1860年没)
- 天野之弥 (2019年没)
- ジークフリート・マルクス (1898年没)
- フリードリヒ・ヨハン・カール・ベッケ (1931年没)