伝記
ジョン・ジェームズ・リカード・マクラウドは、1876年9月6日、スコットランド中部パースシャーのダンケルド近郊クルーニーで生まれた。父ロバートは自由教会の牧師で、生後まもなくアバディーンに転任したため、アバディーン・グラマー・スクールに通い、アバディーン大学で医学を学んだ。大学での主な師の一人は、若い教授ジョン・アレクサンダー・マクウィリアムだった。1898年に優等で医学の学位を得て、奨学金でライプツィヒ大学に渡り、1年間生化学を研究した。のちロンドン病院医学校の助手となり、1902年に生化学の講師に任命された。同じ年にケンブリッジ大学から公衆衛生学の博士号を受け、このころ筋肉のリン含有量に関する最初の研究論文を発表した。
1903年にアメリカのウェスタン・リザーブ大学の生理学講師となり、15年間そこにとどまった。この時期に、生涯続く糖質代謝への関心が育った。1910年には、実験的な糖尿病のさまざまな型と、糖尿病にとっての意義について、アメリカ医師会の合同会合で講演している。1916年にはカナダのモントリオールにあるマギル大学の生理学教授となり、第一次世界大戦後にトロント大学へ移って生理学教室の主任となった。研究は、結核菌の化学、電撃、クレアチニン代謝、脳の血液循環など多岐にわたった。講義が人気で、同大学の6年制医学課程の整備にも影響力を持った。のちに母校アバディーン大学の教授となった。
1920年末、若いカナダ人医師フレデリック・バンティングが、機能を損なわせた膵臓の抽出物で糖尿病を治すという着想を持ってマクラウドを訪ねた。マクラウドは、同様の試みが他の研究者の失敗に終わった例を知っていたため、乗り気ではなく、血糖値の調節には神経系が重要だと考えていた。それでも、休暇でスコットランドに帰る夏の8週間、研究室と実験用の10匹の犬、助手となる医学生チャールズ・ベストを使うことを認めた。実験の計画や分析技術について助言し、最初の犬の手術も手伝った。留守の間に、バンティングとベストは膵臓の内分泌物を取り出し、膵臓を摘出した別の犬の血糖値を下げることに成功した。抽出物はインスリンと名づけられた。
休暇から戻ったマクラウドは成果に驚き、疑いを口にした。バンティングはそれを自分の誠実さへの攻撃と受け取って激しく言い争ったが、結局さらに実験が必要だとする指示を受け入れた。バンティングは、さらにマクラウドを説得して、より良い研究条件と二人への給与を認めさせた。その後、研究室の総力を挙げて取り組み、生化学に詳しいジェームス・バートラム・コリップをチームに加え、1921年から22年にかけてインスリンを大量に抽出する方法を開発した。1922年には糖尿病で瀕死の少年にインスリンを投与して命を救った。
1923年、マクラウドとバンティングは、発見から2年という異例の速さでノーベル生理学・医学賞を受賞した。ただ、発見はバンティングによるものであり、マクラウドの役割は小さいという見方が当時あり、バンティングは共同受賞に激怒したといわれる。バンティングはベストと賞金を分け合い、マクラウドもコリップに賞金の半分を与えた。数十年後、独立した検証により、彼の役割は当初の評価よりはるかに大きかったと認められた。同じ年に王立協会フェローに選ばれ、1935年3月16日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ユースフ・アクチュラ (1935年没)
- エーリヒ・フォン・ホルンボステル (1935年没)
- 孫伝芳 (1935年没)
- エリーザベト・フェルスター=ニーチェ (1935年没)
- ジョン・ジェリコー (初代ジェリコー伯爵) (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘクター・ボイス (1536年没)
- ロバート・ヒッチェンス (1940年没)
- ジョン・バーバー (1395年没)
- ジェームス・ビーティー (1803年没)
- エリック・リンクレーター (1974年没)