伝記
トーマス・エドワード・ロレンスは、1888年8月16日にウェールズのトレマドックで生まれたイギリスの軍人、考古学者である。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。両親は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で暮らし、子どもたちもこれに倣った。1907年にオックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学し、1907年と1908年の夏には長期にわたってフランスを自転車で旅して、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1,600キロもの距離を徒歩で移動しながら十字軍の遺跡を調査した。1910年の卒業時には、これらの調査を踏まえた論文で最優秀の評価を得た。
卒業後はアラビア語を学ぶためベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には恩師の大英博物館の調査隊に加わり、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。同じ頃に、ガートルード・ベルと知り合っている。短い帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者レオナード・ウーリーとカルケミシュの調査を続けた。ウーリーとともにイギリス陸軍の依頼を受け、水源の確保の点で戦略的価値が高いとされたネゲヴ砂漠を調査して、軍用の地図も作成した。
1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、ロレンスは10月に召集されて、陸軍省の作戦部地図課に勤めた。臨時の陸軍中尉に任官され、12月にはカイロの陸軍情報部に移り、軍用地図の作成や、語学力を活かした連絡係を務めた。のち外務省管轄下のアラブ局に転属となり、休暇にアラビア半島を旅して、反乱の指導者の候補たちに会った。情報将校の任務を通じてフサイン・イブン・アリーの三男ファイサルに接触し、その配下のゲリラ部隊に目をつけて共闘を申し出た。強大なオスマン軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行ってヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。絶えず攻撃を続ければ、オスマン軍は鉄道沿線に釘付けになり、イギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けられるというのが狙いであった。
1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。その結果、オスマン軍はメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。続いて、防御が十分でなかったアカバに奇襲をかけて陥落させ、この功で少佐に昇進した。1918年1月のタフィラの戦いでアラブ軍を指揮して勝利し、同年にはダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進した。戦争後はファイサルの調査団の一員としてパリ講和会議に出席し、1921年1月からは植民地省の中東局顧問としてチャーチルのもとで働き、3月にはカイロ会議にも参加した。
1922年8月には「ジョン・ヒューム・ロス」という偽名で空軍に二等兵として入隊したが、すぐに正体が露見して翌年に除隊となり、名を「T・E・ショー」に改めて陸軍戦車隊に入った。しかしこの隊を好まず、空軍への復帰を何度も申請して、1925年に受理された。その後は1935年の除隊まで、英領インドやイギリス国内で勤務した。無名の将校から英雄として広く知られる身となったが、本人はその煩わしさに辟易していたようで、たびたび偽名を用いた。生涯独身を通し、除隊から2か月後の1935年5月13日、オートバイで走行中に2人の少年の自転車を避けようとして事故を起こし、意識不明となって、6日後の19日に46歳で没した。墓はドーセット州モートンの教会にある。
同じ年に亡くなった人物
- オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア (1935年没)
- ハンス・バルシェック (1935年没)
- ハーバート・ジャイルズ (1935年没)
- レオポルト・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=トスカーナ (1935年没)
- マリア・テレジア・ツー・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・カー (初代サマセット伯) (1645年没)
- フランシス・ヤングハズバンド (1942年没)
- アニタ・リザナ (1994年没)
- エドワード殉教王 (978年没)
- フランシス・ホジキンス (1947年没)