伝記
霍光は、前漢の政治家で、字は子孟という。昭帝と宣帝の二代にわたって皇帝を補佐し、政治を取り仕切った。霍仲孺の子で、名将霍去病の異母弟にあたり、霍禹と霍成君の父である。没したのは地節2年3月8日、西暦でいえば紀元前68年4月21日とされる。
武帝の皇后衛子夫の甥である名将霍去病の弟という縁で出仕した。紀元前88年、武帝の治世の末にはすでに奉車都尉と光禄大夫の称号をもつ高位の官僚であった。武帝は晩年に末子の劉弗陵、のちの昭帝を後継者に選び、霍光、匈奴出身の金日磾、近衛の指揮官上官桀の三人に補佐を命じた。霍光は実質的に政府を指揮する立場で、大司馬大将軍の称号を与えられた。後元2年、紀元前87年に武帝が亡くなったとき、昭帝はまだ8歳であり、幼い皇帝の補佐ができるのは霍光以外にいないと武帝は考えたという。
昭帝の補佐役のなかでも、霍光は最も重んじられ、権力も大きかった。紀元前85年に博陸侯となり、同じ年に補佐役の穏健な調整役であった金日磾が没した。その後、上官桀は霍光の権勢をいっそう妬むようになった。霍光は娘を上官桀の子の上官安に嫁がせていた。紀元前84年、上官桀は孫娘、つまり霍光の孫でもある5歳の少女を、11歳の昭帝に嫁がせ、この少女は紀元前83年4月に皇后となった。紀元前80年、対立は頂点に達した。上官桀は、昭帝の兄でありながら帝位につけなかったことを恨んでいた燕王劉旦や、霍光と財政政策などで対立していた桑弘羊、昭帝の姉の鄂邑公主らと謀り、霍光に謀反の罪があると偽って訴えた。しかし霍光を信頼していた昭帝は取り合わなかった。そこで兵を伏せて霍光を討ち、昭帝を廃する企てを起こしたが、露見した。上官桀らは誅殺され、劉旦と鄂邑公主は自殺に追い込まれた。上官桀の一族で生き残ったのは、昭帝の皇后上官氏のみであった。昭帝が成人してからも霍光への信任は厚く、治世13年のあいだ、政治はすべて霍光が取り仕切ったため、昭帝が実権を握ることはなかったと考える研究者が多いという。霍光は昭帝に、大赦を行うことや、費用のかかる対外戦争を控えること、農業を奨励することなどをたびたび勧めた。
紀元前74年、昭帝は子のないまま亡くなった。霍光は昭帝の兄たちを無能で不適格と見て、武帝の孫で昭帝の甥にあたる昌邑王劉賀を帝位につけた。ところが劉賀は服喪の期間中に浪費を重ね、ふさわしくない行いをしたため、霍光はこれを廃することにした。中国史上前例のないことであった。上官太后の詔により、劉賀はわずか27日で廃され、もとの封地である昌邑に戻された。代わって武帝の曾孫の劉病已が帝位につき、宣帝となった。霍光はなお大司馬大将軍として、漢の政治を任されたまま、紀元前68年に没した。武帝の死後の漢の政治を速やかにまとめた功績は大きい。霍光自身はひたすら身を慎み、僭越や専横を避けたので、目立って身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢になり、宣帝の皇后許平君を毒殺して、代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。霍光ほどの人望もなく、霍光の死後は宣帝に実権を奪われ、最後には謀反を計画したため、宣帝の勅命で子の霍禹は腰斬に処され、一族は皆殺しとなった。上官皇后はこのときも無事であった。
日本の関白の名は、宣帝が即位当初に霍光に政権を委ねる旨の詔を出した際の文言、「関り白す」に由来するとされる。関白の異名である「博陸」も、霍光が博陸侯であったことにちなむ。『神皇正統記』は、藤原基経が陽成天皇を廃して光孝天皇を擁立した行動を、霍光になぞらえて讃えている。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前68年の執政官) (紀元前68年没)
- アスカロンのアンティオコス (紀元前68年没)
- ユリア (紀元前68)