伝記
文成帝は、北朝北魏の第4代皇帝である。太武帝の皇太子であった拓跋晃の長男で、名は拓跋濬、鮮卑名は烏雷という。440年に生まれたとされ、生年を448年とする説もあるが、それでは子の献文帝とわずか6歳しか違わなくなるため、可能性は低いとされる。母は柔然王家の出身で、北魏に降った将軍郁久閭毗の妹であった。幼いころから祖父の太武帝に愛され、軍事遠征にも随行し、官位はなかったものの「嫡皇孫」と呼ばれた。
451年、父の拓跋晃は宦官宗愛の讒言を恐れて病に倒れ、世を去った。452年の正月ごろ、太武帝は拓跋濬を高陽王に封じたが、長孫にふさわしくないと考え直してこれを取り消した。後継者にする意図の表れと見られている。しかし同年春、讒言の発覚を恐れた宗愛は太武帝を殺害し、拓跋濬を飛ばして季父の南安王拓跋余を擁立した。宗愛は国政を握り、東平王拓跋翰も殺害した。拓跋余はその専横を嫌って権力を奪おうとしたが、約8か月後、先手を打った宗愛に殺された。これに対し、尚書の陸麗、羽林郎中の劉尼、殿中尚書の源賀らが立ち上がって宗愛を殺害し、拓跋濬を12歳で皇帝に立てた。これが文成帝である。
即位後は、祖父の拡張的な政策と度重なる遠征の後であったため、民力の休養を重んじ、開墾と殖産を奨励した。法も寛大なものに改めたと評される。一方で、即位直後から数年にわたり、高官や宗室が重用されたのち数日から数か月で処刑される争いが続いた。功臣や太武帝以来の重臣も含まれる。詔は皇帝の名で出されたが、帝自身がどこまで関わったかは明らかでない。処刑された者には、功臣の抜抜渇侯、南安王の下で宰相を務めた吐奚弼、いとこにあたる永昌王拓跋仁や楽平王拓跋拔らがいた。この争いのなかで源賀や不留骨利らは害を受けず、独孤尼とともに王に封じられ、のちに高い栄誉を受けた。太武帝の代から戦功のあった尉遅眷も力を持った。また帝は各地を巡幸し、都の平城の人々に部分的な大赦をたびたび行った。
仏教を信じた文成帝は、453年ごろ、太武帝が445年に始めた仏教弾圧を正式に廃止し、自ら5人の僧の剃髪を行った。もっとも、太武帝以来の慣例に従い、454年春には道教の護符も公に受けている。僧の曇曜に命じて雲崗石窟の造営を始めさせ、曇曜五窟の巨大な仏像は、最大の第20窟が道武帝をかたどり、以下、明元帝・太武帝・景穆帝・文成帝の姿を模したとされる。これは「皇帝即如来」の思想の始まりといわれる。曇曜の上奏で僧祇戸や仏図戸も設けられた。
452年冬に母の郁久閭氏が没すると、帝は両親に皇帝・皇后の称号を追贈した。私生活では、453年春に乳母の常氏を皇太后に立て、その兄弟を実の叔父のように遇した。454年秋には李貴人が長男の拓跋弘を産み、456年に馮氏を皇后に立てて拓跋弘を皇太子としたが、北魏の慣例に従って李貴人には自殺を命じた。458年には、酒に酔った人々が朝廷を批判することに腹を立てて禁酒令を出し、醸造・飲酒・売買を禁じて違反者を死罪とした。ただし特別な機会には期限つきで飲酒が許された。その際、官吏の行いを見張るための覆面の監督制度も導入された。子には献文帝のほか、安楽厲王拓跋長楽、広川荘王拓跋略、斉郡順王拓跋簡、河間孝王拓跋若、安豊匡王拓跋猛、哀王拓跋安平がおり、娘の西河公主は薛初古抜に嫁いだ。年号は興安、興光、太安、和平と改められ、文成帝は465年に没した。拓跋弘が即位して献文帝となった。