伝記
ホーコン4世は、1217年から1263年まで46年にわたってノルウェーを治めた王で、老王とも呼ばれる。中世のノルウェーを最盛期に導いた人物とされる。1204年の春(3月か4月)に、フォルケンボルグで生まれた。母はヴァルテイグのインガで、父は、内戦のビルケバイネル派を率いた王ホーコン3世と強く信じられている。父はすでに亡くなっており、母の主張は父の側近の何人かに支えられたものの、生まれたのは敵対するバグラー派の支配地域で、赤子の身は危うかった。1205年から1206年にかけての冬、ビルケバイネル派の戦士たちが幼子を連れて逃れ、ニーダロスのインゲ王のもとへ向かった。途中で吹雪に遭うと、名スキーヤーのトルシュタイン・スケヴラとシェルヴァルド・スクルッカの二人が、子を連れて山を越えた。この出来事は、今もノルウェーで毎年のスキー大会「ビルケバイネル・レンネット」で記念されている。
ホーコンは聡明で機知に富み、年のわりに小柄な子だったと伝えられる。3歳のとき、バグラー派に捕らえられたが、王フィリップ・シモンソンを主君と呼ぶことを拒み、無傷で帰されたという。8歳で、インゲ王と弟のホーコン伯が、自分を外した王位継承の取り決めを結んだと知ると、当事者の立ち会いがないので無効だと述べ、自分の代理人は「神と聖オーラヴ」だと答えた。ホーコンは、ノルウェーの王として初めて、学校で正式な教育を受けた。1217年、13歳で貴族たちに擁されて王位に就き、若いあいだは、のちに対立する伯スクーレ・ボルドソンが摂政を務めた。この年、イングランド王ヘンリー3世と通商条約を結んでいる。1225年には、スクーレの娘マルグレーテと結婚した。1227年には、バグラー派の王位請求者シグルド・リブングの反乱を最終的に破った。1239年にスクーレが自ら王を名乗ったが、翌1240年に彼が死ぬと、長く続いた内戦の時代は終わった。ホーコンは、のちに自分の子を共同統治者に任じた。1241年には、アイスランドの政治家スノリ・ストゥルルソンの暗殺にも関わった。
治世は国内の整備と外への拡大が重なった。旧来の貴族を退けて農民を内政の土台に据え、法の慣習を文章にまとめ、殺人、人妻の略奪、親族による血の復讐を禁じた。王室の顧問会議を設けて王権を強め、1260年には嫡子による相続の法を定めた。1247年にはローマ教皇の使節団から王冠を授けられた。1250年にはハンザ同盟と通商条約を結んで国は栄えたが、その結果、ドイツの諸都市がノルウェーの商業の主導権を握った。最盛期の領土は、スカンディナヴィア半島の3分の2に加え、アイスランド、グリーンランド、マン島、スコットランドの一部に及んだ。ヨーロッパの文学を古ノルド語に翻訳させ、「トリスタンとイゾルデ」もノルウェー語になった。石造りの大聖堂や修道院も各地に建てられた。こうした大事業は、末期の深刻な財政難を招いた。
1262年にヘブリディーズ諸島が攻撃を受けると、老いた王は自ら遠征に出ることを決めた。1263年末、200隻の船と1万5000人の大軍でスコットランドへ向かったが、海岸の近くで嵐に遭い、艦隊は大きな打撃を受けた。それでも上陸したものの、ラーグスの戦いでスコットランド王アレグザンダー3世の軍に大敗し、オークニー諸島まで退いた。カークウォールの司教館で冬を越し、翌夏に遠征を再開すると決めたが、病に倒れ、1263年12月15日(16日とも)に急死した。再遠征は行われず、ヘブリディーズ諸島を失った。息子のマグヌス6世が王位を継ぎ、死後の王国は急速に衰えていった。
同じ年に亡くなった人物
- アグネス・フォン・メラーニエン (1263年没)
- マヌエル1世 (トレビゾンド皇帝) (1263年没)
- 親鸞 (1263年没)
- ボニファーチョ・ディ・サヴォイア (1263年没)
- アックルシウス (1263年没)
同じ地域に関係する人物
- マーガレット (スコットランド女王) (1290年没)
- ピーター・マックスウェル・デイヴィス (2016年没)