伝記
ダヌィーロ・ロマーノヴィチは、ヴォルィーニ公、ハールィチ公として長く戦い、のちにルーシの王を名乗ったリューリク朝の公である。1201年に、ハールィチ・ヴォルィーニ大公ロマンと、東ローマ帝国の貴族の娘アンナの嫡男として生まれた。1205年に父が戦死すると、ハールィチの貴族たちは4歳か5歳のダヌィーロを母アンナと弟ヴァスィーリコとともに追放した。母子は逃れ、幼い日々は叔父のハンガリー王アンドラーシュ2世の宮廷で過ごした。のちにハールィチの貴族の一部がハンガリーに逃れてダヌィーロを呼び戻したため、1210年にハンガリーとハールィチの連合軍が公国に侵入し、1211年9月に9歳の公を位に復した。しかし3年後、有力な貴族ヴォロディスラフ・コルムィルチチらの反乱で廃位され、ヴォルィーニにいる母のもとに戻った。1215年、ポーランドのレシェク白公の求めで、従兄のオレクサンドルがヴォロディームィルをダヌィーロに返した。1218年か1219年には、ハールィチの公位への望みを勇敢公ムスチスラフに譲り、その娘アンナと結婚した。
1223年、若い公はオレシアでモンゴル軍を破り、続くカルカ河畔の戦いにはルーシの公たちの連合軍とともに加わった。連合軍は壊滅し、ダヌィーロは負傷しながらも包囲を抜けて生き延びた。ヴォルィーニの統治では、弟ヴァスィーリコにルーツィクを与え、兄弟は領内を荒らすヨトヴィンギ人とも戦った。1228年にレシェクが暗殺されると、兄弟はその弟のマゾフシェ公コンラトと組んでポーランドの別の公と戦った。1230年にはハールィチ公位に招かれ、市を囲むハンガリー軍を破ったが、貴族たちがまたも陰謀を企て、ハンガリーの王子アンドラーシュが1232年に市を奪った。1234年にはオレクサンドル・フセヴォロドヴィチを破ってベルズ公国を得た。1237年にはドイツ騎士団をヴォルィーニ北部から退け、1238年にはハールィチを取り戻して、父の築いた大公国を再建した。
1239年、モンゴル軍が迫るなかで、ダヌィーロの姉妹の夫であるキエフ大公でチェルニーヒウ公のミハイロは、キエフを捨てて助けを求めてきた。ダヌィーロは配下のドミトロを送って守らせたが、長い包囲ののち城壁は破られ、1240年12月6日にキエフは陥落して大半が破壊された。翌年4月にモンゴル軍はハールィチとヴォルィーニを通過し、ハールィチを壊した。ダヌィーロとヴァスィーリコはポーランドに逃れ、のちに都をホルムに移した。1245年8月17日、ヤロスラウでチェルニーヒウの公、不満を持つ貴族、ハンガリーとポーランドの勢力の連合軍に勝ち、ハールィチの残りを手にして父の領土を取り戻した。ヴァスィーリコにヴォルィーニを任せ、自らはハールィチの称号を保ったが、実権は両方に及んだ。リヴィウとホルムの建設も進めた。
1246年、ジョチ・ウルスはその大公国を従属させ、ダヌィーロは独立を取り戻すためにヨーロッパ諸国に軍事支援を求めた。1253年にはローマ教皇インノケンティウス4世から王の冠を受けた。バトゥが死去すると独立を宣言し、モンゴルと戦う道を選んだが、教皇が呼びかけた反モンゴルの十字軍に応じる国はなく、ほぼ自力で戦った。初めは勝ったが、1259年にノガイ率いるモンゴル軍に降伏した。1260年に再びジョチ・ウルスの支配から離れ、小競り合いを重ねるなか、1264年(1266年とも)に病で亡くなった。年代記は彼を「ソロモンに次ぐ人」とたたえた。息子のレーヴが大公位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ステファン・ヴラディスラヴ (セルビア王) (1264年没)
- ウルバヌス4世 (ローマ教皇) (1264年没)
- キプロス王女イザベラ (1264年)
- トレニオタ (1264年没)
- 理宗 (1264年没)
同じ地域に関係する人物
- オットー・ヘルシュマン (1942年没)
- ジャック・チェミルニク (2007年没)
- スタニスワフ・ポニャトフスキ (1762年没)
- イヴァ (1944年没)
- Judikje Simons (1943年没)