HISTORICAL PERSON · 1266年没

シバン (ジョチ・ウルス)

バトゥの弟としてモンゴルのルーシ・ハンガリー侵攻に従軍。ジョチ・ウルス北東部にシバン・ウルスを興し、その末裔は後のシャイバーニー朝に連なる。

生涯
1266年没
死亡地
カザフスタン(東カザフスタン州 / ユーラシア)
出生地
ジョチ・ウルス(ジョチ・ウルス)
出典
世界地図
カザフスタン(東カザフスタン州)

伝記

シバンは、チンギス・カンの長男ジョチの子で、バトゥの弟にあたるジョチ・ウルスの王族である。ジョチの五男とされ、モンゴル帝国によるヨーロッパ遠征で軍を率いた司令官の一人であった。生没年ははっきりしないが、1266年に亡くなったとされる。1227年に父が死んだとき、彼はまだ成年に達しておらず、このときには領地を受け取らなかった。

遠征に加わったシバンは、1237年にバシキール人、ヴォルガ・ブルガール人、モルドヴィン人への攻撃に参加した。同じ年の冬、遠征軍はルーシに達してその都市を攻め始めた。シバンは西のルートをとる軍団に属し、一時ノヴゴロドの方面へ向かったのち、草原へ引き返した。この軍団はスモレンスクの東30キロを通り、フシチイシュに至り、コゼリスクの東方へ反転した。1239年末には、ボチュクとともに支隊を率いてクリミア半島に侵攻し、スダクを陥落させた。

ルーシ遠征の終盤、シバンの軍はキエフの包囲に加わって、これを陥落させた。バトゥとスブタイが率いる本隊はさらにガーリチ・ヴォルィーニ公国領から西へ進んだが、シバンはガーリチを落としたのちに本隊を離れ、カダアンを長とする南ルートの軍団に加わった。二手に分かれた軍は、ともにカルパティア山脈を越えてハンガリー王国の東部に着いた。1241年のモヒの戦いで、シバンはベーラ4世の軍に決定的な攻撃を加えたとされる。軍はワールシュタットの戦いなどでも勝ったが、カアンのオゴデイの訃報を聞くと、東へ引き返した。

遠征の後、バトゥはシバンにウラル山脈の東の土地を与えた。シル川下流域、チュー川、サルイス川の一帯が冬の宿営地、ウラル山脈の東側に流れ出るウラル川の一帯が夏の宿営地であったという。兄のオルダからも1万5000戸と、クチ、ナイマン、カルルク、ブイルクの四つの氏族が贈られた。こうして、シバンの領地はバトゥとオルダの領地の間で、ウラル山脈とカスピ海の間に広がった。ジョチ・ウルスが興ると、彼はその北東部、現在のカザフスタンの一部を領有してシバン・ウルスを形づくった。

シバンには12人の息子がいたとされる。その一人バラガは、1258年にフレグがバグダードを落とすのを助けたが、のちに事情のわからない形で亡くなった。旅行者ルブルックは、彼が従兄弟のグユクを乱闘で殺したと伝えている。シバンの子孫によるシバン・ウルスは約200年続き、現地の文化と民族の形成に影響を与えた。15世紀に中央アジアに興ったシャイバーニー朝の祖アブル=ハイル・ハンも、シバンの子孫である。

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