HISTORICAL PERSON · 1266年没

ベルケ

ジョチ・ウルスの当主。コーカサス・キプチャク方面の征服やルーシ遠征に従軍し、モンケ即位を支えた後、兄バトゥの死を経てジョチ・ウルスの家督を継いだ。

生涯
1266年没
死亡地
ジョージア(トビリシ)
出生地
モンゴル国(ブルカン・カルドゥン)
出典
世界地図
ジョージア(トビリシ)

伝記

ベルケは、ジョチ・ウルスの第5代当主として、1257年から1266年まで在位した人物である。ジョチの三男で、バトゥの弟にあたる。母はエミン部族出身のスルターン・ハトゥンといい、生年は分かっていない。1225年に父ジョチが亡くなると、次男のバトゥが当主を継ぎ、長男のオルダと父の軍を分け合った。オルダはシル川の北方を、バトゥはサライを中心とするヴォルガ河畔を領有した。ベルケはバトゥの側のウルスに属した。1227年にチンギス・ハンが亡くなり、2年後の1229年春にケルレン河畔で皇帝選挙の集まりが開かれたときには、オルダやバトゥらジョチの諸子とともにベルケも参集している。バトゥを総司令官とする西方への遠征では、ルーシの征服ののち、コーカサス北部の諸民族の征服が始まった。キプチャク人の残りを攻めたのがベルケである。1238年の冬にはマンガスを包囲して6週間で奪い、翌年の春にはデルベントの地方を征服した。

1248年に第3代皇帝グユクが亡くなると、バトゥはトルイ家のソルコクタニ・ベキと協力し、モンケを新皇帝に推した。オゴデイ家とチャガタイ家はこれに反対した。バトゥは弟のベルケとトカ・テムルに多数の軍を率いさせてモンケに随行させ、ケルレン河畔へ向かわせた。それでもオゴデイ家とチャガタイ家は会議に出ず、帝位はオゴデイ家にあるとした。ベルケが1年の猶予をおいてバトゥに指示を仰ぐと、バトゥは遅らせることなくモンケを即位させよ、国家を乱す者は首を差し出すことになると明言した。1251年7月1日にモンケは即位し、全帝国でオゴデイ派の粛清を行った。協力したバトゥ、ベルケ、トカ・テムルには見事な下賜品を与えた。1256年にバトゥがヴォルガ河畔で48歳で亡くなると、モンケは嫡子のサルタクを後継者に定めた。サルタクは帰還の途中で病没し、追認された末弟のウラクチも半年後に夭折したため、最終的に次弟のベルケが当主を継いだ。

1259年、ヴェネツィア商人のポーロ兄弟がベルケの宮廷を訪れ、1年間滞在した。1260年には、クビライとアリクブケがともに皇帝を名乗って争い、アリクブケは救援に来るフレグとベルケの軍を妨げようとした。ベルケはイスラーム教徒であり、イルハン朝のフレグにしばしば強い意見を述べていた。フレグの残酷さ、多数のイスラーム都市の破壊、アッバース朝のカリフの処刑を非難し、ジョチ家の人々がフレグに殺されたことも疑った。1262年、ノガイ率いる軍がデルベントを越え、フレグの軍とテレク川の近くで戦い、フレグ軍が敗れた。ベルケはマムルーク朝のバイバルスに書簡を送り、使節を交換した。1263年には、フレグがタブリーズにいたベルケ側の商人の財産を没収し、ベルケは領内のフレグ側の商人を殺した。1264年、クビライがアリクブケを降すと、ベルケは、その処分の場への列席を求められ、出席すると答えた。

1265年、ベルケの軍はブルガル人を率いてヘムス山を越え、東ローマ帝国の北方を略奪した。このとき、ミカエル8世に抑留されていたルーム・セルジューク朝のカイカーウス2世が救い出された。カイカーウス2世はベルケの宮廷に向かったが、途中のクリミア半島で、救い主の死を聞いた。1266年、イルハン朝のアバカがノガイの侵入を受けて戦い、ノガイは目に傷を負って退いた。アバカが自らクル川を渡ると、強力な軍を率いるベルケが近づいていると知って退いた。ベルケはティフリス付近で川を渡ろうと上流へ向かったが、その行軍の途中で亡くなった。遺骸はサライに葬られ、モンケ・テムルが第6代当主を継いだ。

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