HISTORICAL PERSON · 1266年没

ビルイェル・ヤール

フォルクング家出身の大貴族。1249年にノルウェーとの紛争を終結させ、第二次スウェーデン十字軍でフィンランド支配を確立した。息子の即位後は摂政を務め、ストックホルムの基礎を築いた。

生涯
1266年没
死亡地
スウェーデン王国(Jalbolung)
出生地
スウェーデン王国(エステルイェータランド県 / ビェルボ)
出典
世界地図
スウェーデン王国(エステルイェータランド県)

伝記

ビルイェル・ヤールは、中世スウェーデンのフォルクング家出身の大貴族で、スウェーデンの統一に大きな役割を果たした政治家である。ビルイェル・マグヌソンとも呼ばれる。生まれは1200年ごろとされるが、はっきりせず、1266年に50歳で死んだという記録からは1216年生まれになる。父マグヌスは遅くとも1210年までに亡くなっているので、誕生はそれより少し前のはずだと考えられている。父は有力なフォルクング家の出で、ヤールのビルイェル・ブローサの弟にあたる。母は、スヴェルケル1世の孫にあたるイングリッド・ユルヴァである。ビルイェルは、父方のフォルクング家と母方のスヴェルケル家という二つの血統を受け継いでいた。兄のエスキル、カール、ベントは、ビルイェルよりかなり前に生まれており、腹違いの兄弟である可能性が高い。こうした血縁が、のちの生き残りと栄達に役立った。名は、1202年に亡くなった当時最大の有力者ビルイェル・ブローサを受け継いだとみられる。

1230年代にエリク11世の姉インゲボリと結婚すると、ほかの求婚者との激しい抗争が始まった。15年にわたる争いのなかで、ビルイェルは地位を固め、1248年に公式にヤールの称号を受ける前から、スウェーデンで最大の権力者になっていた。1240年にノヴゴロドに攻め込んでネヴァ川の戦いで敗れた北方十字軍の推進者だったと、後のロシアの年代記は語るが、スウェーデンの記録には見えず、この戦いの存在自体が疑われている。1247年、前王クヌート2世の子ホルムイェルが王位を求め、フォルクング家勢力とともに反乱を起こした。エリク11世と縁戚のビルイェルは国王軍を率い、スパルサートラの戦いで反乱軍を破った。ホルムイェルは逃れたが、翌1248年にビルイェルに捕らえられ、裁判のあと斬首された。

1248年ごろ、教皇特使のグリエルモ枢機卿がスウェーデンを訪れた。このころビルイェルは、各地の支配者にカトリックを広めていた。これは敬虔な信仰のためとも、教会と手を組んでフォルクング家内のライバルに対する地位を固めるためとも考えられ、彼をヤールの地位に押し上げるうえで重要な役割を果たした。1249年にはスウェーデンとノルウェーの数十年にわたる紛争を終わらせた。1225年にノルウェー人がヴェルムランドに侵入して以来の対立で、戦闘をやめ、互いの敵の支援を禁じる和約が結ばれた。11歳の娘リキサとノルウェー王ホーコン4世の長子ホーコンとの結婚も取り決められた。そのあとビルイェルは第二次スウェーデン十字軍を率いてフィンランドに遠征し、支配を確立した。1250年にエリク11世が死ぬと、甥にあたるビルイェルの息子ヴァルデマールが王に選ばれ、ビルイェルは摂政として死ぬまで政治を行った。1252年にはヘッレヴァズブロの戦いで、再びフォルクング党を破った。同じ年の手紙は、ストックホルムの最初の記述とされる。

1254年に妻インゲボリが亡くなると、1261年にホルシュタイン伯アドルフ4世の娘メヒティルドと再婚した。メヒティルドは、1252年に戦死したデンマーク王アーベルの未亡人だった。ビルイェルは1266年10月21日にヴェステルイェートランドで亡くなり、墓はヴァーンヘム修道院にある。2002年5月に調査のために開かれた。ドイツとの交易による資金力と、教皇との関係の強化で地位を固めた彼は、後世に「最後のヤールであり最初の真のスウェーデン王」と称えられる。子には、スウェーデン王となったヴァルデマール1世のほか、のちの1275年にマグヌス3世として即位したマグヌスがいる。

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