伝記
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスは、共和政ローマの軍人・政治家である。紀元前130年頃、あるいは前128年頃の生まれとされ、紀元前63年に没した。紀元前80年に執政官を務め、最高神祇官にも就いた。最も有力な平民の家のひとつ、カエキリウス・メテッルス家の出身で、閥族派(オプティマテス)に属した。
メテッルス家は紀元前284年に最初の執政官を出した家で、紀元前2世紀の後半には、有力な貴族たちとともに元老院の中心を担い、多くの高位の官職を占めた。ピウスは紀元前109年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスの子で、祖父は紀元前142年の執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルス・カルウスである。従兄弟には、スッラの妻カエキリアや、政治家で美食家としても知られるルクッルスがいる。ヌミディクスの唯一の息子で、家は伝説では火神ウルカヌスの子カエクルスの末裔とされる。紀元前109年から前108年ごろには、およそ20歳であったと推定されている。そのころ、ヌミディア王ユグルタとの戦争が始まると、執政官となった父に従って戦場に出た。しかし父は部下のガイウス・マリウスと対立した。マリウスが執政官に立候補したいと申し出た際、父は「この私の息子とともに執政官になるつもりか」と皮肉で答えたという。そのマリウスが翌年に執政官となって司令官の座を得ると、戦争の泥沼化の責任を問われて更迭された。のちにローマで閥族派と民衆派の対立が起こると、父は民衆派の指導者となったマリウスと衝突し、紀元前102年に追放された。ピウスは父の帰還を周囲に訴え続け、紀元前99年に父はローマへ戻ることができた。尊称「ピウス」は、このときの行動にちなんで与えられたものである。
紀元前89年に法務官となり、同盟市戦争では一軍を率いてイタリアの反乱部族に勝利を重ねた。紀元前87年にスッラとの政争に敗れたマリウスがローマを占拠すると、ピウスはアフリカへ逃れた。そこへ後から来たクラッススとも不和になり、アフリカを離れたという。マリウスの死後、紀元前83年に第一次ミトリダテス戦争から戻ったスッラに合流し、翌年のスッラのローマ帰還に力を尽くした。北イタリアやガリア・キサルピナでは反対派に勝利を収めたとされる。スッラ政権下の紀元前81年に最高神祇官となり、紀元前80年にはスッラの同僚として執政官に当選した。
スッラの死後、ピウスは民衆派の残党を討つためヒスパニアへ向かった。そこでは、民衆派のクィントゥス・セルトリウスが軍を起こしていた。ゲリラ的な戦い方をするセルトリウスに決定的な勝利を得られずにいると、元老院はグナエウス・ポンペイウスをこの地へ送った。紀元前75年にはセルトリウス側の部将ヒルトゥレイウスの軍をイタリカで破り、セルトリウス自身もセゴンティアで破ったとされる。紀元前72年にセルトリウスが部下に殺されると戦争は急速に終わり、勝利の功により凱旋式を許された。
ピウスは紀元前71年にローマへ戻った。ヒスパニアでの統治は8年に及んでいた。紀元前63年に死去し、最高神祇官の職はガイウス・ユリウス・カエサルが得た。妻はルキウス・リキニウス・クラッススの娘リキニアで、子が生まれなかったため、スキピオ家からスキピオ・ナシカを養子に迎えた。ナシカはピウスの甥にもあたる。なお、スペインに由来するコロンビアの都市メデジンの名は、同名の村の創設者とされるピウスのメテッルスの名に由来するといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ミトリダテス6世 (紀元前63年没)
- プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラ (紀元前63年没)
同じ地域に関係する人物
- Gaius Memmius (紀元前45)
- ガエターノ・マルティーノ (1967年没)
- グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前32年の執政官) (紀元前31年没)
- ゲイヴィン・ハミルトン (1798年没)
- フォルコ・ルリ (1970年没)