HISTORICAL PERSON · 1936年没

オスヴァルト・シュペングラー

ドイツの文化哲学者・歴史学者。主著『西洋の没落』でヨーロッパ中心の史観を批判し、その影響は哲学や歴史学、芸術など多方面に及んだ。

生涯
1936年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ブランケンブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

オスヴァルト・アルノルト・ゴットフリート・シュペングラーは、1880年5月29日にブラウンシュヴァイク公国のブランケンブルクで生まれたドイツの文化哲学者、歴史学者である。中流家庭の出身で、保守的な価値観の家庭に育ち、それが自身の思想にも影響したという。5人きょうだいの二番目で、兄は生後3週間で亡くなった。1891年に一家はハレに移り、そこでフランケ財団のラテン語学校に通った。のちに幼少期を頭痛や不安の発作に彩られた時期として語っている。窮屈に感じた学校を避け、独学で学んだ。1899年に大学入学資格を取ったが、心臓の障害のため兵役を免除された。ハレ、ミュンヘン、ベルリンの各大学で哲学、歴史学、美術、音楽、数学、自然科学を学んだ。

1904年に「ヘラクレイトス――彼の哲学のエネルギー論の根本思想に関する研究」で学位を取得した。指導教授はアロイス・リールで、同年12月には理科教員の採用試験にも合格している。その後、デュッセルドルフやハンブルクなどの高等学校で教えたが、教職は性に合わなかった。母の死で得たわずかな遺産により、1911年に教職を辞し、ミュンヘンで著述と思索のなかで生活を始めた。ミュンヘンでは新聞の文化欄を担当しながら、のちの主著の執筆を続けた。その着想の源の一つに、1911年のアガディール事件があった。ドイツ軍が砲艦をモロッコの港に派遣しながら外交上の失敗に終わったこの出来事に、彼は世界が全地球的な戦争へ向かう歴史的転換の兆しを見た。ニーチェの文化批判やゲーテを深く敬愛し、ヘッケルのダーウィン主義からも影響を受けたとされる。

第一次世界大戦中に書かれた『西洋の没落』第1巻は1918年に発表されると広く読まれた。第2巻は1922年に出た。この本は「全地球に広がっているヨーロッパ・アメリカ文化の没落の分析」であり、目的は世界史の比較形態学とされた。アメリカ合衆国やロシアといった非ヨーロッパ勢力の台頭を受けて書かれ、直線的なヨーロッパ中心の史観・文明観を痛烈に批判するもので、影響は哲学、歴史学、文化学、芸術など多方面に及んだ。第2巻では、農民と封建貴族の住む農村を血と伝統の世界として称賛し、都市を貨幣と知性による寄生的な世界とみた。

敗戦後は、伝統的なプロイセン保守主義にとらわれない新しいナショナリズムとして「プロイセン的社会主義」を展開し、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックらとともに、保守革命と呼ばれる思想の一角を形成した。1919年の『プロイセン的特性と社会主義』では、社会主義はプロイセンの伝統的な徳性であり、ドイツを19世紀イギリスの唯物論と実証主義の産物であるマルクス主義から解放すべきだと説いた。民主主義は貨幣と政治権力の同等化であるとして批判し、時代はカエサル主義へ向かうと考えた。ナチ党員ではなかったが、抽象的な資本と商業の世界をユダヤ人にみる世界観を提供して、ナチスを生んだドイツの知的風土に強い影響を与えたとされる。一方で、生物学的な反ユダヤ主義には反対していた。著作には、1924年の『ドイツ帝国の再建』、1931年の『人間と技術』、1933年の『決断の年』などがある。1936年5月8日、ミュンヘンで心臓病のため死去した。55歳であった。

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