伝記
チャールズ・カーティスは、1860年1月25日、カンザス準州の北トピカに生まれたアメリカの政治家で、ハーバート・フーヴァー政権で第31代副大統領を務めた。祖先の8分の3がアメリカ先住民で、母エレン・パパンはカンサ族、オセージ族、ポタワトミ族、フランス人の血を引いていた。父オーレン・カーティスは英国系で、イングランド、スコットランド、ウェールズの祖先を持っていた。母方では、カンサ族の酋長ホワイト・プルームとオセージ族の酋長パウフスカの子孫にあたる。幼児期の最初の言葉は、母から学んだフランス語とカンサ語であった。母が1863年に亡くなったとき彼は3歳で、父が南北戦争で北軍に従軍し、捕虜となって囚われていた間、母方の祖父母に養われた。祖父母は、母方の相続でトピカの土地を彼が得るのも助けた。
1868年6月1日、シャイアン族の戦士約100人がカンサ族の居留地を襲った。カンサ族の男たちは顔に彩色をして馬で迎え撃ち、4時間ほどの示威の後、シャイアン族は馬を数頭奪って引き揚げ、双方に負傷者は出なかった。このとき通訳のジョー・ジムがトピカの知事に助けを求めて駆けた際、8歳のカーティスが同行していたという。この頃は「インディアン・チャーリー」と呼ばれた。幼い頃から競走馬を愛し、のちに草原の競馬で成功した騎手にもなった。十代でカンサ族がインディアン準州へ移されると、これに再び登録した。居留地の母方の祖父母と、トピカの父方の祖父母の双方から強い影響を受けた。
1881年に法曹界に入ってトピカで弁護士を開業し、1885年から1889年にかけてはショーニー郡の検察官を務めた。1892年に32歳で共和党から連邦下院議員に当選し、以後6期を務めた。この間に起草、成立を助けた1898年のカーティス法は、ドーズ法を五文明部族に及ぼすものであった。彼自身は最終案に不満だったが、実施によってインディアン準州の部族の土地所有は終わり、1907年のオクラホマ州の成立が準備された。先住民は主流の教育と同化によって利益を得られると彼は考えていた。1907年から1913年まで上院議員を務め、1912年の選挙で落選したが、1915年に返り咲いて、1920年と1926年にも再選され、1929年まで職にあった。1921年には、のちの男女平等憲法修正案の最初の案を上院に提出した。1915年から共和党の院内幹事、1924年ごろからは院内総務として、法案の取りまとめに力を発揮した。
上院議員の彼は共和党全国委員会の委員長や、先住民の搾取問題を調べる委員会にも名を連ねた。1928年の共和党大会で副大統領候補に指名され、フーヴァーと組んで大勝した。1929年3月4日に副大統領に就任し、1932年にはアメリカの副大統領として初めてオリンピック競技大会の開会を宣言した。世界恐慌のさなかの1932年の選挙でもフーヴァーと組んだが、ルーズヴェルトとガーナーに大敗し、1933年3月に任期を終えた。その後はワシントンで弁護士業を再開し、1936年2月8日に同地で死去して、カンザス州トピカの墓地に葬られた。連邦政府で最高位に就いた先住民であり、副大統領を務めた最初で唯一の先住民とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・E・ハワード (1936年没)
- アルバート・フィッシュ (1936年没)
- アレクサンドル・グラズノフ (1936年没)
- イワン・パブロフ (1936年没)
- ヴィルホ・ランピ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・パーシー (2011年没)
- ダグラス・マッカーサー (1964年没)
- リチャード・ホルブルック (2010年没)
- ジョージ・ビブ (1859年没)
- ヘンリー・ウィーズ (1865年没)