伝記
カール・ピアソンは、1857年3月27日に生まれ、1936年4月27日に没したイギリスの数理統計学者、優生学者である。19世紀末からの研究により、現代的な数理統計学の基礎を築いた。
弁護士の子としてロンドンに生まれた。クエーカー教徒の家庭で、父は法廷弁護士、母はファニーといい、アーサーとエイミーという二人のきょうだいがいた。名の綴りは、のちにカール・マルクスに心酔して改めたのではないかと言われている。ユニバーシティー・カレッジ・スクールを中退して家庭教師につき、1876年にケンブリッジ大学のキングス・カレッジに入学して数学を学び、1879年に卒業した。ユニバーシティー・カレッジ・スクールとケンブリッジ大学の両方で、日本の菊池大麓とともに学んで親友となっている。その後ドイツに留学し、ハイデルベルクで物理学と形而上学を、ベルリンでは生理学者デュ・ボワ=レーモンのダーウィニズムの講義を聴いた。ローマ法や中世ドイツ文学、社会主義も学び、1880年代の多くをベルリンやハイデルベルクなどで過ごして、すぐれた歴史家でありドイツ文学者にもなった。帰国後は法学を学んだり文筆活動を行ったりしたが、再び数学に転じた。1881年にキングス・カレッジ・ロンドンで数学教授の代理を務め、1884年にはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの応用数学・力学の教授となった。
ここで動物学者ウォルター・ウェルドンと知り合い、生物測定学と進化論の共同研究を行った。この共同研究は1906年にウェルドンが亡くなるまで続いた。ウェルドンはダーウィンの従兄弟フランシス・ゴルトンをピアソンに紹介し、ピアソンはその後継者となった。1911年にゴルトンが死ぬと、ピアソンは3巻の大部のゴルトン伝を著した。伝記は1914年、1924年、1930年に出され、印刷費の多くはピアソン自身が負担した。ゴルトンは遺産を大学に遺して優生学の講座の創設を望んでおり、ピアソンはその初代教授となった。また応用統計学部も創設して、生物測定学研究室とゴルトン研究室を合わせ、1933年に退官するまで研究を続けた。
統計学の業績は多い。ゴルトンの平均回帰のデータを用いて数学モデルを構成し、線形回帰と相関、ピアソンの積率相関係数の理論の発展に中心的役割を演じた。確率分布を分類して、以後の統計学理論の基礎をつくり、ピアソンのカイ二乗検定を考案し、ヒストグラムという語も創案した。ロナルド・フィッシャーとは、小標本理論をめぐって論争した。ピアソンの理論は大標本を前提とし、記述統計学と呼ばれる。著書『科学の文法』は科学思想家としての代表作で、科学とは方法論であり、あらゆる現象が科学の対象となりうるという持論を展開し、統計学を科学という言語の文法にたとえた。アインシュタインも若い時にこれを読んで強い影響を受けたという。日本では夏目漱石や寺田寅彦も影響を受けた。
1890年にマリア・シャープと結婚して、娘2人と息子1人をもうけた。息子のエゴン・ピアソンも統計学者となり、父の後を継いで応用統計学の教授となった。1896年に王立協会フェローに選ばれ、1898年にダーウィン・メダルを受けた。ドイツ留学以来マルクスを信奉する社会主義思想の持ち主で、1920年に大英帝国勲章を、1935年にナイト叙勲を辞退している。1936年、サリー州で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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