伝記
ムンシー・プレームチャンドは、1880年7月31日に生まれた、近代ヒンディー語・ウルドゥー語文学を代表する小説家、脚本家である。プレームチャンドは筆名で、本名はダンパト・ラーイ・シュリーヴァースタヴといい、英領インドのワーラーナシー近くのラムヒー村で、郵便局員の息子として生まれた。祖父は村の土地台帳を管理する役人で、家は地主の家系に連なる。裕福な地主だった叔父に「ナワーブ(太守)」とあだ名され、最初の筆名「ナワーブラーイ」はそこから選ばれた。7歳で近くのマドラサに入り、ウルドゥー語とペルシア語を学んだが、7、8歳の頃に長患いの母が亡くなり、続いて育ててくれた祖母も死んだ。父は任地で再婚したが、継母から愛情を受けることは少なく、継母はのちに彼の作品に繰り返し現れる主題となった。
少年は慰めを小説に求め、本に魅了された。煙草屋でペルシア語の幻想叙事詩『ティリスム・エ・ホーシュルバー』の物語を聞き、本の卸売商の下で本を売る仕事をして多くの本を読む機会を得た。ミッション・スクールで英語を学び、数々の小説を読んだ。最初の作品は読書に夢中な彼を叱る叔父を題材にした笑劇であったが、世に出ることなく失われた。1895年、15歳で最初の結婚をしたが、相手は年上で、気に入らず、まもなく破綻した。父は1897年頃に亡くなり、入学試験に二等の成績で合格したものの、学費免除の対象とならず、進学を断念した。弁護士の子弟に勉強を教えて月5ルピーの収入を得ながら、馬小屋の上の泥の小部屋に住み、その6割を家に仕送りした。借金を重ねた末、1899年に本を売りに行った書店でミッション・スクールの校長に出会い、教師の職を得た。のちには月給18ルピーの教職に就き、学校の副調査官代理にもなった。
最初はウルドゥー語でナワーブラーイの筆名で書いていた。初めての短い小説『神殿の秘密』は、寺院の僧侶の腐敗や貧しい女性への性的搾取を描き、1903年から1905年にかけて週刊紙に連載された。批評家には未熟とも評されている。1905年からカーンプルで約4年を過ごし、短編集『祖国の悲しみ』を出した。この本を1909年、英領インド帝国政府は扇動的とみなして発禁にし、写しを燃やした。最初の話について彼は「国の自由のために落ちた最後の血の一滴」と述べた。以後はプレームチャンドの筆名で書くようになった。
ファンタジーや宗教的な作品が主だったヒンディー文学に、現実を見つめる写実主義を持ち込んだ。カーストの序列や女性、労働者の苦境を描いた先駆の一人であり、300を超える短編、12の長編、2つの戯曲を残した。『ゴーダーン』『ガバン』『カルマブーミ』『イードガー』などが代表作である。1921年にはガンディーの招きに応じて公職を辞め、文芸誌『ハンス(白鳥)』を創刊し、続いて政治誌『ジャーガラン(覚醒)』の編集者となった。一時はボンベイの映画界で脚本も書いた。再婚相手は、当時のインドでタブーとされた子連れの未亡人シヴラーニー・デーヴィーで、3人の子をもうけた。1936年10月8日に死去した。没後の1980年には生誕100周年の記念切手が発行された。
同じ年に亡くなった人物
- アーヴィング・タルバーグ (1936年没)
- ゲオルク・ミヒャエリス (1936年没)
- 章炳麟 (1936年没)
- チャールズ・カーティス (1936年没)
- レオナルド・トーレス・ケベード (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- サイイド・アフマド・ハーン (1898年没)
- アーザム・シャー (1707年没)
- シャー・ジャハーン (1666年没)
- バフト・ハーン (1859年没)
- ラジャセカラ (920年没)