伝記
ルイ・ブレリオは、1872年7月1日、フランス北部のカンブレーで5人きょうだいの長男として生まれた航空界の先駆者である。10歳でカンブレーの学校に寄宿し、工学製図の賞を含め、しばしば成績優秀で表彰された。15歳でアミアンの高等学校に移り、伯母のもとで暮らした。理科とドイツ語の大学入学資格試験に通ると、名門のパリ中央工芸学校を目指し、準備のために1年間パリの学院に通った。受験生243人の合格者のうち74位で合格し、とくに工学製図の試験で好成績を収めた。3年間の厳しい勉強を経て卒業し、続いて義務の兵役に服して、ピレネー山中のタルブにあった砲兵連隊の少尉を1年務めた。
のちにパリの電気機械会社に就職したが、コンパクトなアセチレン発生器を組み込んだ、世界初の実用的な自動車用前照灯を開発して退職した。1897年にはパリに前照灯の店を開き、事業は成功して、ルノーやパナール・ルヴァッソールといった当時の有力な自動車メーカーにも納入した。1900年10月、行きつけのレストランで両親と食事をしていた若い女性に目を奪われ、その晩、母に「彼女と結婚する。さもなければ誰とも結婚しない」と言ったという。相手は退役軍人の娘アリス・ヴェデールで、1901年2月21日に二人は結婚した。
航空への関心は学生時代からあったが、本格的な実験のきっかけは、1900年のパリ万国博覧会でクレマン・アデールの飛行機を見たこととされる。1900年頃から飛行機の実現に没頭し、鳥を模した「はばたき機」を自作したが、飛行には至らなかった。1903年、ライト兄弟が初飛行に成功した年に、前照灯で得た利益を基に、ガブリエル・ヴォアザンと共同でブレリオ・ヴォアザンを設立し、複葉機などを製作した。1906年11月には、サントス=デュモンが14ビス号で100メートルを超える飛行を成し遂げるのを目の当たりにした。ヴォアザンとの協力関係は解消され、自らの会社を興して、いろいろな形式の機体で試行錯誤を続けた。ブレリオ5型は世界初の実用的な単葉機となったが、1907年に事故で失われた。
1906年にはロンドンの新聞デイリー・メールが、宣伝のためドーバー海峡横断飛行に賞金1,000ポンドを懸けた。1909年7月25日の早朝、ブレリオは、レイモン・ソルニエ設計のブレリオ11型で、カレー郊外からドーバー城まで36分55秒で初めて横断した。ユベール・ラタムらとの先着競争を制し、巨額の賞金と国際的な栄誉を手にした。この偉業を記念してレジオンドヌール勲章を受け、出発地はブレリオ海岸と名づけられた。11型にはレプリカの注文が殺到し、工房は繁忙を極めた。1914年には、創業者の摘発で混乱していたスパッド社の経営権を取得し、第一次世界大戦で軍用機の最大手の量産メーカーに育て上げた。1921年に自身の名を冠した会社を設立して民間機事業にも進出し、成功した。手で操る操縦桿と足で踏む方向舵を組み合わせた操縦方式を、最初に用いた人物でもあり、現代にまで続くこの方式の源流とされる。また「格納庫(ハンガー)」の語源は、ブレリオが家畜小屋の製造会社に格納庫を注文したことに由来するという。1936年8月に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ・リッケルト (1936年没)
- ジョン・ウッドロフ (1936年没)
- ビカイジ・カマ (1936年没)
- アレクサンドル・タマニアン (1936年没)
- モーリッツ・シュリック (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ1世 (ブルボン公) (1341年没)
- Edme-Francois Jomard (1862年没)
- ニナ・コンパネーズ (2015年没)
- ジャン・ラングレー (1991年没)
- ベヒ・ラドガム (1998年没)